『君の名は。』を見た感想レビュー

『君の名は。』監督・脚本:新海誠、公開2016年。劇場ではなくテレビ朝日の地上波放送で見ました。いくつかカットしているところもあるんかな?とりあえず感想です。

全体的な感想

映画館では見たことがなくて、この地上波放送で初めて見ました。この作品は宗教色が非常に強く、大学の宗教学の講義で教材として使われてることもあるようです。私も宗教学は好きなので見ておかないといかんなぁと思いつつも、公式サイトなどでおおまかなあらすじを見る限りでは、他の映画監督も言っているように、売れる要素を盛り込んだ映画という印象が強くあったため、結局映画館で見ることはなく地上波でタダで見ることになりました。

見る前は正直なところ、調味料を大量にぶち込んだラーメン、程度の認識でした。このブログでは何度も書いているんですけども、売れるものが質の高いものだとは限らないからです。むしろ売れるものというのは多くの場合、大衆をターゲットとするため、全体のレベルは下がる傾向にあります。極端な話、モーツァルトとJ-popのどちらの方が質が高いか、またどちらがよく売れるか、と考えればわかりやすいかな、と思います。

それで実際に見てみてなんですけども、予想以上に面白かったですね(笑)食わず嫌いはダメですね、反省しています。まず画がものすごく綺麗でした。以前にもCMとかで断片的に映像は見たことがあるんですけども、ここまで綺麗だとは思いませんでしたね。「おお、動いてる!」みたいな感動がありました。音も良かったです。ちょこちょこ「うるさい!」と感じるところがあったんですけども、全体としてはすごく良い感じでした。そんな感じで割と楽しく見れました。

あと、見る前と同じように、ストーリーが浅いなとは思いました。何を伝えたいのかがよくわからない、というのが強くあります。ただもしかすると、あえてそういうのを入れていないのかもしれません。「考えるな、感じるんだ!」的な?新海誠さんと正反対の人としては宮崎駿さんが挙げられるかなと思います。この人はメッセージ性が非常に強く、例えばもののけ姫ではアニミズム、自然破壊、差別問題、孤児問題などなど色々なことが表現されていて見るのが大変なほどです(何度も見ました)。それと比べると君の名は。はそういうところで感じるものが少なく、悪く言えば中身がないということになりそうですが、好意的に解釈するならば、映像や音の美しさに注目してほしい、ということなのかもしれません。

全体の感想はこれくらいです。あと他に気づいたところについてちょこちょこっと書いておきたいと思います。

宗教

繰り返しになりますけども、君の名は。は大学の宗教学の講義で教材として使われるほどに宗教色の強い映画です。大学図書館に資料として君の名は。のDVDが置いてあるところもあるのではないでしょうか。細かいことを言い出すとキリがないので簡単にしておきます。

終末思想

これはセカイ系に多いです(でも君の名は。はセカイ系だけども瀧と三葉の性格はセカイ系とは離れていますね。若い女性に受けたのはこれがポイントなのかも)。君の名は。では隕石が落ちてきて町が消滅するという形で描かれています。昔、ノストラダムスの大予言が流行しましたけども、あれも終末思想です。日本では終末思想がかなり受け入れられやすいようです。

テレプレゼンス

テレはテレビジョンとかテレフォンとかのテレです。遠くにいる人とコミュニケーションを取る、というものです。テレビとか電話というのはかなり現代的なものではあるのですが、遠くの人と話したいというのは人間が昔から持つ欲求でした。

例えば死者との交流などですね。自分が住んでいるこの世界と死んだ人が住んでいる向こうの世界、そしてお墓の前で死者を想ってコミュニケーションを取ろうとする、というような感じです。

君の名は。では瀧と三葉がそれぞれ別の世界にいて、お互いに交流しようとしています。

(この作品はかなり分かりやすいものでしたが、最近のは科学技術として表現されることが多いです。例えば、現実世界と電脳世界を行ったり来たりしたり、死んだはずの人の意識がAIとして保存されていてコミュニケーションが取れるようになったり。宗教と科学の対立はよく問題になりますが、宗教と科学の境界性が曖昧になっている点にも注意が必要だと思います)

神道

ちょっと大きな括りになりますけども、神道の影響が強いです。これは細かいことを言い出すと本当にキリがないんですが、「組紐」とか「口噛み酒」とかメタファーがいっぱい出ていました。三葉も巫女さんですしね。

こっちの世界とあっちの世界を行き来するわけですけども、たいていこれをするために媒介が登場します。君の名は。では紐と酒がそれでした。

名前について

これちょっと自信がないんですけども違和感があって、設定ではすぐに名前を忘れてしまうみたいで、瀧も三葉もお互いの名前について悩むところがあるんですけども、私としては名前ってそんなに大事なものなのかと。

名前がなぜあるのかと言えば個体を識別するためにあるわけです。固有名詞ってそういうものだと思うんですよ。だから名前そのものは本質ではなくて、人物そのものの方が遥かに重要であるはずです。ロミオとジュリエットもそうですよね、「どうしてあなたはロミオなの?」と言うわけですが、名前がロミオでなくてもまったく問題になりません。名前が変わっても本質は変わらないのですから。

ここ最近キラキラネームのように、名前に個性を出そうとする、言い換えれば名前そのものに意味を持たせようとする傾向があるんですけども、私はこれはおかしいと思っています(もちろん言うまでもなく、名前を付けられた方に責任はありません)。

なので、2人はお互いの名前をずっと思い出そうとしてたんですけども、名前がないなら別に自分で勝手に名付ければいいと思いますし(あだ名なんて典型です、本名ではないけども識別できるからそれでいいのです)、名前ではなく人物について想像をめぐらすこともできただろうにと思ってしまいます。

2人の本来あるものがないという喪失感とすれ違いに共感する人は多いのだろうと想像しますが、2人の場合は忘れているだけで以前会ったことがあるという前提があるからまだいいですけども、共感する方はおそらく前提をすっとばして「希望」みたいなのがどこかにあるはずだと考えていると思うんですが、それはあまり良い傾向ではないように感じます。ちょっと飛びすぎかもしれませんが、グノーシス主義のようなものがあるようにも思います。

名前は識別するためのものでしかありませんが、名前は概念と密接に繋がっているので、最初に名前を出すと本来存在しないものを存在するものとして認識してしまいます。これはある種の偶像崇拝です。

その他

これは本当にどうでもいいんですけども、瀧が三葉になっているときに、なぜ三葉の世界の時間を知らなかったのか、また町の名前すらも知らなかったのか、瀧の世界で隕石落下という衝撃的な事故を連想することができなかったのか、日記は消えるのになぜ人間関係はそのままなのか、とかその他色々気になるところがありました。原作では説明がなされているのかもしれませんけども、こういう細かいところで話に入り込めなかったように思います。考えるな、感じるんだ!ということなのかもしれません。