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わざとぶつかってくる人について感じたこと



街を歩いていると遭遇する『わざとぶつかってくる人』についての話 - Togetter

これですね。駅ですれ違う人にわざと肩をぶつける人がいるようです。ぶつけられる人の特徴としては、一人で歩いている女性や、なんとなく見た目が弱そうな人などのようです。

そういう人について感じたことですが、端的に言えば、情けない人もいるのだなぁという感じです。しかし、同時に、なぜそういうことになるんだろうか?という疑問もあります。

わざとぶつかってくる人というのは、別に今に始まったことではありません。前からいるようです。文脈とか全然関係ないのですが、ドストエフスキーの『地下室の手記』ではわざと肩をぶつけようと計画を立てる男性の姿が描かれています。これが書かれたのは1864年ですから、肩をぶつけようとした理由は現代のそれと違うだろうとは思いますが、少なくとも150年以上前からわざと肩をぶつけたがる人はいたようです。

なんとなく、「単に異常者だからそうするのだ」とは言い難いような感じがします。何か根本的な原因があるのではないでしょうか。もしあるのであれば、肩をぶつけたがる人を個別に捕まえていっても(それも大事ですけど)、別の人が同じことをし出すでしょうし、あるいは手法を変えて似たようなことをし始めるかもしれません。私は背景に構造的な問題があるような気がします。

こういうことを言うと、「事情なんか知らん、やった奴が悪いんだ」と反論する人も中にはいるようです。もちろん、やった奴が悪いことに変わりはないのですが、その背景について無関心になってしまうと、結局また同じことが繰り返されるだけです。私としては、こういった無関心が本当の意味で危険なのではないかと思います。

話は変わりますが、今、日大のラグビーの悪質なタックルが問題になっています。監督とコーチが選手に悪質なタックルを指示し、選手はそれに従ったに過ぎない、という感じになっています。部外者の私にはそれについて判断することはできませんが、関学や被害者側の主張などもあり、おそらく選手の主張が正しいのだろうという流れになっています。今回は選手が会見を行ったこと、被害者側が原因の解明に力を注いだことなどからこういう流れになっていますが、もしそういうのがなかったなら、日大の選手が悪者にされていたかもしれません。「事情なんか知らん」ということであれば、「選手がタックルしたんだから選手が悪いんだ。選手の理屈なんか知らん」ということになると思います。

全然関係のない話になりますが、バーミヤンの仏像破壊についても書いておこうと思います。2001年、タリバーンによってバーミヤンの大仏が破壊されました。この破壊は事前予告があったのですが、世界中から非難が飛び交いました。確かに、この仏像破壊は許されるものではないと思います。しかし、その背景でこういう現実もありました。ちょっと長いですけど、大事なところなので引用します。

私は、ヘラートの町の外れで、2万人もの男女や子供が、飢えで死んでいくのを目の当たりにした。彼らはもはや歩く気力もなく、皆が地面に倒れて、ただ死を待つだけだった。この大量死の原因は、アフガニスタンの最近の旱魃である。同じ日に、国連の難民高等弁務官である日本人女性(緒方貞子)もこの2万人のもとを訪れ、世界は彼らの為に手を尽くすと約束した。3ヵ月後、この女性がアフガニスタンで餓死に直面している人々の数は、100万人だと言うのを私は聞いた。
ついに私は、仏像は、誰が破壊したのでもないという結論に達した。仏像は、恥辱の為に崩れ落ちたのだ。アフガニスタンの虐げられた人々に対し、世界がここまで無関心であることを恥じ、自らの偉大さなど何の足しにもならないと知って砕けたのだ。

(引用:モフセン・マフマルバフ (武井みゆき・渡部良子訳)『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』 現代企画室 2001年)

100万人の餓死者よりも仏像のほうが重要だというわけです。ついでにいうと、こういう組織で活動しているのは孤児です。

これらの話と今回の肩をぶつける人の話を一緒にするのもどうかと思いますが、しかし、無関心という点では共通しています。本当にぶつかってくる奴の理屈なんかどうでもいいのでしょうか。まさにこういう無関心こそに何らかの問題が潜んでいるようにも感じられます。肩をぶつけるというのは、極めて微妙なところを突いているようですが、容認できるものでもないと思います。しかし、その背景になにがあるのかを考えることもまた重要ではないでしょうか。

それから、Togetterに関連する記事のコメントに(ちょっとURLがわからなくなったんですけども)、「他人が何を考えているかなんてわからない」というものがありました。これはある意味では確かにその通りではあるのですが、同時に非常に悲しいことでもあります。なぜこういうことを自分で言ってしまうのでしょうか。

また、加害者の立場で考えるということについて、「加害者を擁護するのか」という反論が来ることがあります(もしかするとこの記事にも来るかもしれませんね)。加害者の立場で考えることと加害者を擁護することが同義であると思っているのでしょうけども、なぜそうなってしまうのでしょうか。

どうも私には主観と客観の区別がついていないのではないかと感じられてしまいます。もちろん、今のところはTwitterや一部のブログなどで取り上げられている程度であり、十分に客観的な情報が出ていないので判断が難しいところはあります。ただ、こういう言説を見ていると、ネットは特に気を付ける必要があるなと改めて感じました。今日のサザエさんでは、波平が家族から勝手に病気に仕立て上げられていました。切り取られた言説、恣意的な視点。日常的な生活でも簡単に増殖するわけですが、これはネットにおいて特に増殖しやすいものです。リアルとバーチャルの距離感がおかしくなってきています。主観と客観の区別がつかなくなるのも、ある意味では当然でしょう。