nancolu

一般人の個人ブログです

表現されたものこそ私の本体?



面倒だから色々省きますけども、「私」って関係の総合じゃないですか。だから、私は非私である、ということです。そんでもって、「私」って点みたいなもんじゃないですか、数学的な点です。それを示すものではあるけども、点そのものに面積はなくて、あると考える人もいるけども、どっちでもいいような性質のものでしょう。だから、もっと言えば、「私」というのは場みたいなものだと思うんですよね。

それで、「私」というのは別にあろうがなかろうがいいんですが、「私」という場に集まってくるものがあるわけでしょう。Aという情報に触れて、Bという情報に触れて、Cという情報に触れて、他にもいっぱいあって、その総合が「私」なんだけど、その状態ではまだ実体はなくて、「私」から生まれてきた表現されたものは、AとかBとかCとかその他の情報を1つにしたものだと思うんですが、それこそ私じゃない?

だから今このブログを書いている人物が本体ではなくて、このブログこそが本体だと思うんよね。もちろん、ブログに固有なもの、人間でいうところの自我みたいなものがあるわけではないけども、だから分解していったら何にも残らないんだけど。まあ分解すれば何も残らないって、これこそ関係性よね。関係がなければ存在しえないんだし(いや、ブログを例にするとアレですね、私にとってはブログが本体と言えるけども、私以外の他人にとってはただのブログでしょう)。

作者は死んだんじゃなくて、最初っからいなかったんだよ、きっと。「作者は死んだ」とは言うけども、この「作者は死んだ」こそが作者なんだって、たぶん、知らんけど。誰でも表現したいっていう欲求は持ってると思うけど、これはある種の行為かもしれませんね。だから暴力性が出てくるのかも。芸術で「作品と格闘する」なんて言ったりするじゃないですか。別にここでの格闘が必ずしも暴力性を伴うわけじゃないけども。

研究って生き方よね~、いや生きることそのものよ(笑)