他宗教との対話



3つの類型

宗教間対話において、よく用いられる3つの類型があります(宗教一般というよりも、神学、より詳細に言うならば宗教の神学で語られることが多いです)。それが、排他主義、包括主義、多元主義です。

学術的な用語なので堅苦しいですが、言っていることは非常に単純で、他の宗教に対しての救済を認める度合いの違いを示しています。つまり、排他主義は自分の宗教のみに救いがあるのであり他の宗教には救いがない、包括主義は他の宗教にも救いはあるがそれは自分の宗教の力によってなされる、多元主義は自分の宗教だけでなく他の宗教も救われる、という感じです。

ちなみに、多元主義は、すべての宗教に救いがあると考えるわけではなく、危険性があると思われる宗教(例えばカルト宗教など。しかし「カルト」の定義は人によって異なることが多いです)には救いはないと考えます。 

多元主義は本当に寛容?

以上の説明を読む限りでは、多元主義が最も素晴らしいと感じられた人もいるかもしれません。しかし、多元主義そのものが悪いわけではないのですが、多元主義にも排他的な要素が絡んでくる場合がよくあります。

というのは、排他主義と包括主義は他の宗教に対して排他的な要素があるから多元主義の方が良いよね、排他主義や包括主義は多元主義的になるべきだよね、という考え方が伴うことが多いからです。

また、実際の対話の場においては、その場に集まるのは多元主義的な立場をとる人たちが多くやってきます。そのような場で、「みんなで仲良くしましょう」と言っても、同じような価値観を既に共有している人たちなのですから、無駄とまではいかないにしても、それほど対話が進展することはありません。

そういう意味では、本当に必要なのは、対話の場にいない人たちとの対話です。そして、対話の場にいない人たちがなぜ対話の場に来ないのかをしっかりと考えなければなりません。これをせずに、対話の場にいる私たちは寛容なんだ、そしてこの場にいない人たちは不寛容なんだ、と言うのは、それこそまさに不寛容なのです。

多元主義の立場をとるのであれば、他の宗教が持つ排他的な要素も含めて、その宗教を認めるということが必要になるでしょう。

日本人は寛容?

日本は他の宗教に対して寛容であると言われることが多いです。確かにそういう人がいるのも事実です。しかし、本当に他の宗教を理解したうえで、それを尊重しようとしているのでしょうか。

おそらく、多くの人はそうではないでしょう。その態度は、寛容というよりもむしろ、無関心ではないでしょうか。寛容と無関心は、考え方は全く異なりますが、表面的な態度に関してはほとんど差がありません。「あなたを受け入れます」というよりも「私の関係のないところで勝手にやっててくれ」という考え方をしている人が少なくないように思われます。

最近では、ムスリムを意識して、ハラール認証の商品を開発したりといった活動が行われています。寛容の精神に基づいてそういった活動を真剣に取り組んでいる人や組織がいる一方で、単にお金になるから、評判が良くなるから、といった理由で活動をする人や組織もあります。営利企業であればそれはある意味では当然ともいえる態度ではあるのですが、しかしムスリムの中にはあからさまなハラールビジネスに嫌悪感を抱く人も少なくありません。本当に寛容であろうとするならば、ムスリムがどのような考え方をするのかを理解したうえで商品開発をしていく必要があるでしょう。

対話をしていくためには?

対話は必ずしも直接会って話すことだけを意味しません。他の宗教が持つ聖典を読んでみるなど、できることは数多くあります。いきなり対話の場を設けることはそう簡単にはできませんが、関連する書籍を手に入れて読んでみることは簡単に行えます。理解しようと努めること、この姿勢が最も大切です。