宗教を信じることのメリットや効用

なかなか難しいテーマですが書いてみたいと思います。私はキリスト教の信仰を持っているのですが、ここではキリスト教に限らずいろいろな宗教を想定します。また、日本人の大部分は宗教的アイデンティティを持っておらず、この記事を読む人の多くもそういう人だろうと思いますので、その視点を意識して、できる限り宗教を客観的に捉えて考えてみます。

共同体に参加できる

たいていの宗教には超自然的な存在がいます。そして、宗教を信じていない人からすれば「そんなのは人間が作りだしたものに過ぎない」と感じるわけですね。しかし、同じようなものは日常生活の中にあふれています。

たとえば、国家を考えてみましょう。地球上に国境線はありません。実際にはフェンスが立ててあったりしますが、それはあくまでも人間がやったことであり、自然としての国境線なんてものが存在しないのは言うまでもないでしょう。つまり、国家は人間が作りだしたバーチャルです。しかし、私たちは実際に国があるという前提を共有しており、その枠組みの中でさまざまな仕組みを構築して生活をしています。その意味で国家はリアルでもあります。日本で考えるならば、「日本」というのは自然として存在しているわけではなく、人間が作りだしたバーチャルに過ぎませんが、国民皆保険制度や年金制度などを作って、バーチャルに基づいて実際に生活をしています。バーチャルだから役に立たないというわけではありません。

宗教も同じようなものです。宗教の信者たちは、たとえば日本国民が日本が存在すると信じているのと同じ程度に超自然的存在がいると信じているのですが、客観的に見れば超自然的存在は人間が作りだしたバーチャルであるわけですけども、バーチャルだからといって役に立っていないわけではなく、実際に宗教施設などを作り、その中で人々が集まって助け合ったりしているわけです(具体的内容は宗教ごとの教義によって異なります)。この助け合いが行われている共同体への参加は、宗教によって条件は違いますが、多くの宗教では信仰の有無を基準にしています。

物語の暴走の抑制

宗教を信じていない人の中には「自分は現実だけを見ているのであり、物語に振り回されることなどない」と言う人もいます。しかし、上記の通り、実際には存在しない国家などの中で生きていたりするわけで、広義の物語から無関係な人は存在しません。逆説的ですが、現実だけを見ているつもりになっている人はリアルとバーチャルの関係を理解していないのであり、ゆえに現実を見ることができていないということができます。

ともかく、人間は、意識的であれ無意識的であれ、何かしら物語の中で生きています。そして、この物語は暴走することが珍しくありません。たとえば、人の遺伝子は99%が同じであることがわかっています。しかし、世の中に差別があるように、人は「自分はアイツとは違うのだ」といった物語を作って争います。また、自分を他人と比較して、「自分はダメな人間なんだ」と思い込み、自分を追い込んでしまう人もいます。このように、人間は物語を作ってしまう存在なのです。

そして、宗教は、このような個別の物語を統合し、また相対化させる機能を持っています。たとえば、キリスト教であれば、この世界を創造したのは神であり、世界全体を統括するものとして神が想定されます。また、人間を超えた存在と自分との関係を考えることによって、「自分の考えていることは本当に正しいのだろうか」と吟味できるようになります。このような物語を統合、相対化させる機能は宗教によって異なりますが、宗教を信じることのメリットとしてよく挙げられるようなストレスの軽減などの効果にもつながってきます。

ちなみに、ここで言いたいのは、物語がダメだということではありません。国家の例のように、物語は現実に対して実際に作用するからです。客観的にはただの物語であっても、その物語の枠組みの中にいる人にとっては、それは事実なのです。問題は人間は物語によって暴走する可能性があるということであり、宗教はその暴走の歯止めとして一役買っているというわけです。

もちろん、宗教も暴走する可能性は否定できないのですが、これについては以前記事にしました(宗教は危険?なぜ宗教戦争が起きるのか - nancolu)。ついでなので、「よい宗教」と「悪い宗教」の違いも書いておきます。ものすごく簡単に言うと、自分の頭で考えさせるか否かです。宗教を信じていない人の多くは、宗教は経典がもっとも重要と考えるようです。しかし、本当に重要なのはそこに書かれている概念であり、記述そのものではありません。なので、経典を丸暗記すればいいというわけではなく、自分なりに概念を理解することが求められます。「悪い宗教」では信者に考えさせません。「教祖が言っているから正しい。経典に書いてあるから正しい。」とは言うものの、なぜ教祖がそう言うのか、なぜ経典にそれが書いてあるのかを説明することができないのです。

実は、このことは宗教に限ったことではありません。「偏差値の高い大学に行くといい会社に就職できる」「有名な会社に就職すれば人生安泰」「年収が高いほど幸せ」「モノが少ないほうが充実した生活を送れる」というように、物事を吟味せず、ただ「一般的にそう言われているから」「偉い人がそう言っているから」という物語だけで人生の選択をしている人もいるはずです。宗教はこういった物語を相対化する機能を持っています。他人に流されるのではなく、自分で選択できるようになるでしょう。

自由になれる

自分で選択できるということは同時に自由になれるということでもあります。宗教によって考え方は異なるのですが、宗教的な自由というのは、傍から見れば苦痛を伴うように見えることが多いです。というのは、他者に貢献するような行動を取る傾向があるからです。たとえば、極端な例ですけども、紛争地に行ってけが人を手当するなどです。自分を犠牲にしているので、一見自由から遠いようにも思えます。

一般的に、自由というと、何でも自分の好きなようにできること、と考える人が少なくないようです。しかし、それは欲望であり、身体の性質としてそういう欲求が出ているのですから、結局のところ身体に束縛されているわけです。言い換えれば、遺伝的な、動物的な生き方をしていることになります。

また、仕事などから解放されて、ハワイなどで何もしない生活を望む人もいます。ハワイが悪いわけではないですが、何もしないわけで、時間を潰しているようなものです。英語で時間を潰すことを「kill time」と表現しますが、文字通り時間を殺しているのであり、つまるところ自分の能力を活かしていないわけです。

そう考えれば、宗教者は欲望などから距離を置いて自分で選択をしていますし、また自分の能力を最大限生かそうとしているわけですから、表面的には不自由に見えても、実は当人にとっては自由なのです。

たしかに、中には無理やりに犠牲を強いるようなものもあるのですが、それは先ほど書いた「悪い宗教」と同じです。ポイントは、自分の頭で考えてそれを選択しているかどうかです(この部分に関しては非常に難しいものがあって、「自分で考えている」と思い込まされている場合もあるので、注意しなければなりません)。

まとめ

長々と書いてきましたが、宗教を信じることをメリット、効用を一言でまとめるならば、リアルとバーチャルの関係を適切にすることであろうと思います。現代ではリアルとバーチャルの関係がおかしくなってきました。

繰り返しになりますが、現代には「自分は現実だけを見て生きているのだ」と考える人が出現するようになっています。しかし、これは端的に言って想像力の欠如でしかなく、動物化に過ぎません。

私は、みんなが宗教を信じるべきだとは考えていませんが、しかし歴史的にリアルとバーチャルの関係を結び付けていたのは宗教です。宗教が力を失った現代において、宗教に変わるものが求められているように思います。