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宗教と科学の関係よりもヤバイ宗教と文献の関係


一般的には科学が発達したことで宗教は大きなダメージを受けたと考えられているのではないかと思います。しかし、現在では、宗教の側からすれば科学の発達はそれほど大きな問題とはなっていません。むしろヤバイのは宗教内部にありました…。

実は間違っていた?

自然科学の発達は、一時的には大きな影響があったものの、現代では宗教を脅かすようなものではありません。むしろ、自然科学と宗教は扱う領域が異なっており、両方の考え方を持つことが大切であると言われるようになってきています。

しかし、諸科学が発達したことで、宗教が持っていたものに対して新たな視点を与えることになり、これが問題となっています。それが文献です。ここでいう文献というのは経典なども含めて大きく文献としていますけども、今まで伝統的に正しいと思っていた文献が間違っていたり、あるいは文献の解釈が全然違うのではないかという疑惑が出てきました。

とりあえずここでは仏教とキリスト教について見てみましょう。

仏教の場合

仏教は釈尊によって開かれた宗教です。これが後に展開していって大乗仏教が生まれました。日本の仏教はこの大乗仏教にあたります。

さて、この大乗仏教なのですが、ここで用いられているお経の大部分が、釈尊によって説かれたものではなく、後の僧侶による創作であることが判明します。つまり、大乗仏教で言っていることは、釈尊の教えと全然違うわけですね。

これが判明したのは日本では明治時代に入ってからです。それ以前においては、中国から伝えられてきたお経しか手に入らず、直接インドまで行って最古のお経に触れるなんてことはできませんでした。それで、明治時代に入ってから初めて最古のお経を読めるようになり、今まで信じていた仏教が釈尊のものとは違うらしいということに徐々に気づき始めます。また、科学の進歩によってお経の年代測定などができるようになり、お経の成立の背景なんかもわかるようになります。

現代では、大乗仏教と釈尊の教えには乖離があることが定説となっています。そして、信仰は主観的なものだから、学問的な成果とは関係ない、というのが仏教者の基本的な立場です。しかし、本当にそれでいいのかという議論もあって、大乗仏教と釈迦の教えの接続をどうするかが大きな課題となっています。

キリスト教の場合

キリスト教ではプロテスタント諸教派を取り上げておきます。世界史をやった人であればルターを知っているでしょう。彼は今から500年前に宗教改革を行いました。その際、非常に重要な要素となったのが信仰義認論です。救われるのに修行とか行為とかは関係なく、信仰さえあれば救われるのだ、と彼は主張しました。そして現代のプロテスタント諸教派においても信仰義認論が重要な教義となっています。

しかし、諸科学が進歩したことで聖書を多角的に読むことが可能となったのですが、その結果として、どうやらルターは聖書を誤読したのではないかと言われるようになりました。つまり、ルターから現代に至るまでの500年間、聖書を間違って読んでいたかもしれないのです。

ざっくり言うと、ルター以降、聖書は、律法の行いを否定して信仰こそが重要なのだと言っているものとして解釈されてきました。しかし、最近の研究によって、別に行為を否定しているわけではないことが明らかになります。むしろ行為を推奨しているようにも読めるのです。

そういうわけで、まあプロテスタントの中にもいろいろな考え方があるのですが、500年の伝統と実際の聖書の教えの中で葛藤が起きています。

まとめ

かなりざっくりとした書き方ではあるのですが、文献をどう読むか、どう扱うかという問題が現代の宗教にはあります。しかし、だからといって宗教がダメになるわけではありません。むしろ、時代に合うように文献の解釈や扱い方を考えるために宗教者や神学者がいるのであって、このような問題は今後の宗教の発展にもつながっていくでしょう。