宗教は危険か?


ニュースを見ていると、ちょこちょこと宗教関連の問題を目にします。そういうわけで、宗教にはどことなく危険な印象を受けるという人もいるでしょう。そのような印象は、おそらくは、オウムの影響も少なからずあるだろうとも思われます。実際のところ、宗教は危険なのでしょうか。また危険であるのならば、どの程度危険なのでしょうか。

宗教は危険

結論から先に言いましょう。宗教は危険です。どの程度危険なのかというと、人間が危険であるのと同程度に危険です。もし仮に人間が危険でなくなれば、宗教も同様に危険ではなくなります。人間と宗教は極めて密接な関係があり、両者を切り離すことはできません。よって、人間の危険度がそのまま宗教の危険度になるのです。

宗教が危険と思えるような例をあげてみます。宗教はしばしば暴力と結びついてきました。中世のカトリックは(現在はまったく違っています)、世界史の教科書を見れば一目瞭然ですけど、かなりひどいです。もし教義に反することを言おうものなら、異端とされ、処刑されました。たとえ、教会を改善しようという意図を持って真摯に対応しても、「教義と違うこと言った!死刑!」となんの考慮もうちに刑罰がくだされてしまうのです。また、他の国々への伝道活動も行われたのですけども、「信じなければ地獄に落ちるからな!」と脅迫するような形で展開されました。植民地とも関わるものですね。

日本でもあります。戦時下の日本は天皇を中心とした国家神道がありました。言い換えれば天皇信仰です。当時は、戦争で死ぬことが善いこととされました。というのは、戦死することは天皇のために死ぬことだからです。つまり、天皇という信仰の対象が、自己犠牲に倫理的正当性を与えたのです。ここで重要なこととして、他者への視点が欠落していることが指摘できるでしょう。戦争に参加するということは、当然ながら相手でいるわけであり、その犠牲もあります。しかし、その犠牲に対する責任はまったく取られないのです。

宗教は平和的でもある

このように、宗教に危険な側面があるのは紛れもない事実です。しかし、人間が平和的である程度には宗教も平和的です。何においても言えることですが、デメリットばかりを取り上げるのは正しい現実認識は言えません。メリットにも目を向けてみましょう。

第二次世界大戦中、キリスト教の中には戦争に反対し続けた人物が何人もいます。ドイツではヒトラーが力を持つ中、告白教会というグループが形成され、必死に抵抗し続けました。当然ながらそんなことをすれば攻撃されるわけですが、それも活動を続けたのです。日本にも内村鑑三のような人物がいます。彼はもともとは戦争を認めていたのですが、戦争はただの搾取に過ぎないことを自覚し、後に絶対平和主義の立場を取りました。

もちろんキリスト教以外にもあります。インドで活躍したガンディーは誰もが知る存在でしょう。ガンディーはどれだけ攻撃を受けても、非暴力主義を徹底しました。その背景には、アヒンサーという、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教の根本をなす思想があるのです。

最近の事例では、東日本大震災における仏教徒の活躍があげられるでしょう。多くの人が被害を受ける中、教派に関係なく僧侶が集まり、ともに活動を展開しました。ボランティア活動にもかなり積極的です。

宗教と人間

いろいろな考え方がありますが、宗教は人間の営みに過ぎません。宗教は神や仏といった何かしらの「超越者」を想定しますが、それへの人間の応答が宗教です。その意味で、「超越者」と宗教は区別しなければなりません。宗教が人間の営みであり、世俗的なものであるならば、宗教は相対的であり、また両義性を当然に含みます。つまり、宗教は、ここまで書いてきたような危険な側面と平和的な側面があるのです。

一般的に、宗教の危険な側面だけが注目されがちであるのですが、これこそ危険と言うべきでしょう。というのは、宗教と無関係な人は存在しないのですが、危険な側面だけを指摘するのは自己に内在する危険性を外部化することに他ならないからです。これは結果的に対立を生みます。

まとめ

結論としては、繰り返しになるのですが、宗教は危険です。そして、それは、人間が危険である程度に危険です。この危険性を発露させないためには、常に自己を批判的に顧みることが欠かせません。もちろんこれは、宗教を信じているという自覚のある人はもちろんのこと、その自覚がない人にも言えることです。問題を外部化してはなりません。