いい宗教と悪い宗教の違い


宗教の多くは人々の支えとなるよいものです。しかし一方で、よくない宗教があることも否定できません。それでは、いい宗教と悪い宗教の違いは何でしょうか?どうやって区別すればよいのでしょうか?

柔軟な思考を認めるか否か

いい宗教と悪い宗教の違いを明確に示すことは、不可能でしょう。そもそも、いい悪いは価値判断です。そして、宗教、言い換えれば信仰は、極めて主観的なものであり、これに客観的な指標を用いて良し悪しを判断しても、果たしてそれに何の意味があるのか怪しいものがあります。

しかし、そうは言っても、やはりいい宗教と悪い宗教は確かに存在しているように思われます。この違いを感じさせるものとして、不完全であることは重々承知していますが、あえてあげるならば、柔軟な思考を認めるか否かを指摘することができるでしょう。柔軟な思考を認める宗教がいい宗教で、認めないのが悪い宗教です。

経典や教祖の発言への対応で大きく違いが出てくるでしょう。悪い宗教の場合「ここに書いてあるから絶対正しい」「教祖がこういっているんだから他はあり得ない」というような態度をとる傾向があります。基本的に解釈は認めません。なので、「この記述は、こういう文脈で書かれているから、別の意味でも読めますよね」と言っても、「こう書いてるんだからダメだ」となるわけです。

本来、宗教は概念です。経典や教祖の言葉そのものが宗教ではありません。経典や教祖の言葉は宗教を理解するためのものであって、それが伝えようとしているものこそが重要なのです。なので、たとえば、中世のクリスチャンの大部分は聖書が読めず、絵画やステンドグラスなどを用いて理解をしたわけですが、それでもクリスチャンと言えるのです。極端に言えば、経典そのものはそれほど重要ではありません。

宗教を理解しようとすれば、その経典や教祖の言葉が、なぜそれを主張するのかにまで思考が及ぶはずなのですが、悪い宗教の場合はそこまで思考が至りません。「経典に書いてあるから」「教祖が言っているから」とは言えるのですが、なぜ経典に書かれているのか、なぜ教祖がそれを言ったのかまでは説明できないのです。つまり、記号的な思考をする傾向があるということです。

悪い例

昔の西洋キリスト教(いろいろな教派があるので一概には言えませんが)はその良い例でしょう。信者獲得のために未踏の地を目指しては、現地人に対して改宗を迫り、改宗しなければ地獄に落ちると言って脅しました。改宗しない場合には本当に酷い対応をしていました。

戦前、戦中の日本の国家神道もかなり危ないです。天皇は神で、天皇を認めない者は排除されました。国家神道以外の宗教は天皇を認めるような教義を作り上げなければならず、これができない場合には弾圧されたわけです。キリスト教は特に苦労したことでしょう。ちなみに、今では有名になりつつありますが、神風特攻隊は自爆テロの先駆けです。天皇のために死ぬことが名誉なこととされていました。死に、戦闘に、倫理的正当性を与えたのです。

戦後の日本は経済的成功こそが幸福であると考えられました。これが今ではそれなりにまとまり、よい学校に行き、よい会社に行けば、その幸福に与れると考えられています。親は子供に対して、勉強をしなさい、そうすればよい学校に行けるし、よい会社にもいけると言います。そして、それに従わない場合は不幸になると言います。まさに現代版預言者と言うべきものでしょう。

まとめ

繰り返しになりますが、いい宗教と悪い宗教を明確に区別することはできません。ただ、柔軟な思考をしない、記号的な思考をするものに関しては、危険性を感じることがあります。これは必ずしも宗教という明確な形をとるわけではなく、わたしたちの日常生活において当たり前とされている価値観の中にも潜んでいることが珍しくありません。このようなものを、厳密には不可能であるにしても、対象化していくことが大切です。