自然と物語


ただあるということ

生きていると、他者との違いや、才能がないことなどに悩むことがよくあります。そんなときに自然を見ていると大切なことに気づかされます。それは、ただあるということです。

人間は、それ自体として、単独で、生きていると思いがちです。この認識はある意味では間違っていません。私たちは自分の頭で考えて行動していますし、体という枠組みを持っています。ちょっと変な表現かもしれませんが、ジャンプしようと思えばジャンプできますし、ジャンプしている間は足が地面から離れています。つまり、自然とは切り離された状態の身体があるように思われます。

しかし、そんな身体も自然の恩恵によって成り立っているはずです。身体は食べたものによって構成されていますが、その食べ物はこの自然の中で生み出されたものであり(もちろん人工的な食べ物も多くありますが、それらも元をたどれば自然から生み出されたものを加工しているわけです)、この身体は自然と常に関係しています。そのため、身体は、それ自体としてあるのではありません。

自然にあるものもすべてそれ自体として成り立っているのではありません。たとえば、木は、土や水や太陽などがなければ存在することはできないでしょう。あらゆる関係の上に存在は成り立っているのです。そのように考えれば、そのものがその状態でただ存在するということは素晴らしいとしか言いようがありません。そして、ただあるということは絶対肯定なのです。

私たちも自然にただ存在するものと同じで、ただ存在しているのであり、それ自体にいいも悪いもありません。絶対的に肯定されます。自分に欠けているものなど何もないのです。

人間として生きる

以上のことを簡単に言ってしまうと、身体はそこらへんにある木や草と何ら変わりません(分子レベルで考えるとよりわかりやすいでしょうか)。身体は現実そのものなのです。

しかし、「身体=現実」であるかと言えば、それは違うでしょう。正確には、現実との関係性から(私としての)身体が生まれる、と言うべきです。もう少し具体的に言えば、私は現実であるが現実そのものではなく、現実であるがゆえに、現実の一部としての私である、といったところでしょう。

ここで、「身体」と「私」を同じ意味で使いましたが、ここには大きな隔たりがあります。「身体」という場合には、医学的な、自然物としてのものをイメージしますが、「私」という場合にはそれに限定されない人間的なニュアンスを含みます。では、「身体」が「私」になるためには何が必要なのかというと、それは物語です。

物語というのは別に難しいものではなく、普段から当たり前のように意識していることをいいます。たとえば、身体は自然の中に、ただ存在するものであり、いいも悪いもありませんが、しかし私たちは他者との比較の中で「劣っている」などと思ったりします。また、これを読んでいる人はおそらく日本の方だと思いますが、「日本」という自然には存在しないものをあると仮定して、その中で仕組みを作り、実際に生活をしています。このように、人間は、現実の中で物語を仲介させ、現実を再認識する存在です。ちなみに人間以外の動物はモノをモノとして直接的に認識します。(詳しくはこちら「若者の人間離れが起きる理由とは? - nancolu」)

その意味で、人間は物語がなければ生活することができません。自然の中の身体として、ただある存在としての認識は重要ですが、それだけではやはり生活できないのです。物語の中に入っていかなければなりません。しかし、繰り返しになりますが、物語の中では、私たちは容易に「私は他人よりも劣っている」といったことを考えがちです。つまり、物語は暴走する可能性を持っています。

この物語の暴走を抑制するためには、個別の物語を統合する、大きな物語が欠かせません。いわゆる世界観です。そして、その世界観の中に「私」を位置付け、「私」を常に相対化させていく必要があります。

(当然ながら「私」というのも独立しては存在せず、他者との関係から成り立つものです。たとえば、思考する際に日本語を用いているということは、親や教師などから日本語を教えられているからであり、自分の頭の中から自然発生的に日本語が出てきているわけではありません)

自然と物語の弁証法

自然と物語、言い換えれば、身体と私。これはある意味で矛盾するものです。しかし、どちらも欠かすことはできません。自然あるいは身体だけでは無ですし、物語あるいは私だけでは暴走しかねません。なので両方が必要です。

たしかに両者は矛盾します。しかし、この緊張関係があるからこそ、暴走することなく、視野を広げて、人間らしく行動することができるのです。