親鸞とパウロの類似点と差異

親鸞とパウロ、それぞれ生まれた時代も場所も全然違うのですが、意外と類似点が多くあります。そのため、「真宗はキリスト教の影響を受けている?」なんて言われることもあります(ちなみに影響はまずありません)。また、類似点はあるものの、違うところもあり、やっぱり2つは異なる宗教なんだなぁと思わせられます。というわけで、類似点と差異を簡単に紹介してみます。

親鸞とパウロの類似点

信仰のみという思想

親鸞もパウロも、基本的には信仰があれば救われると考えます。

親鸞の場合

浄土教の経典である『仏説無量寿経』で説かれている四十八願の第十八願にはこのようにあります。

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。 もし生ぜずは、正覚を取らじ。 ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

簡単に言うと、罪深い人でも「極楽に往生したいです」と願って南無阿弥陀仏と念仏すれば、必ず阿弥陀仏が助けてくれるということです。信仰以外には何も求めていません。

パウロの場合

パウロは聖書から引用します。ローマの信徒への手紙10章9-13節です。

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれでも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになられるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

ガラテヤの信徒への手紙2章16節はもっとわかりやすいです。

けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。

このように、パウロは信仰を強調しています。

念仏や祈りは自分ではなく仏や神によって起こる

親鸞の場合

親鸞の考えは歎異抄から伺うことができます。歎異抄の8条には、念仏は自分のはからいによって行うのではなく、阿弥陀仏の本願の働きであるといったことが書かれています。確かに念仏は自分の体で行うものではあるのですが、でもその念仏の背景には阿弥陀仏の働きがあると考えます。自分でやっているわけではないから、念仏そのものは修行ではないし善でもありません。

(ちなみに、本来の他力本願の意味は、阿弥陀仏の本願に頼ることです。人任せという意味ではありません)

パウロの場合

ローマの信徒への手紙8章26節です。

同様に、”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

ちなみに”霊”は神のことです。同時にイエスのことでもあります。ガラテヤの信徒への手紙2章20節にはこうあります。

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

私の中にいる、霊、神、イエスがあって、そしてそれらの働きによって祈りが生じるとパウロは考えています。

罪深い存在であるという意識

親鸞とパウロ、どちらも自分が罪深い存在であるという意識を持っています。そしてだからこそ、阿弥陀仏またはイエスに頼るのだと考えます。

親鸞の場合

歎異抄2条には、どのような修行も満足に行えない私は、地獄以外に住処はないというようなことが書かれています。

親鸞はエリートで、比叡山での修行も頑張っていました。しかし、修行しても煩悩がなくならないということで、比叡山を降りています。

そういうわけで、どんな修行も満足に収めることのできない自分は罪深い人間だと思っていたわけです。そして、だからこそ、自分ではどうしようもないから阿弥陀仏にただ頼るという思想に至ります。ちなみに、罪深いというのは犯罪の意味ではなく、宗教的な意味です。

パウロの場合

ローマの信徒への手紙7章21‐24節にこうあります。

それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのでしょうか。

 善をなしたい、でもできない、そんな葛藤が書かれています。ちなみに、このあとに、イエスによってこそ救われるというようなことが続きます。

親鸞とパウロの差異

死後の考え方

仏教は輪廻するのに対し、キリスト教は復活します。

親鸞の場合

仏教では、死ぬと輪廻して生まれ変わるという思想があります。真宗、親鸞でも基本的には輪廻思想を引き継いでいます。解脱するためには修行をしなければならない。でも、できない。だからこそ阿弥陀仏に頼るのだ、というのが親鸞です。ちなみに、念仏すると、死後は極楽浄土に行くと考えられています。

パウロの場合

キリスト教では、仏教のように輪廻するという考え方はありません。死んだら眠り続け、そして時が来ると復活すると考えます。