なぜ私は宗教を信じるようになったか


自己の有限性

私はキリスト教の信仰を得るに至ったのですが、結論から言うと、自己の有限性の自覚がその理由になります。

直接的なきっかけとなったのは、NHKで放送されている「こころの時代」という番組です。いつの放送だったのか忘れてしまったのですが、「何をおそれるか―本来の私をいきる―」というテーマで、基督教独立学園高校前校長の安積さんが登場されていました。

この中で、安積さんが3つの課題を提示されます。それらを要約すると以下のような感じになるでしょう。

  1. 自分がおそれているものを紙にできるだけ多く書く
  2. その中から本当におそれているものを3つピックアップする
  3. その3つから解放されるには何が足りていないか、あるいは何が必要かを考える

私はこの課題の重要性をすぐに理解しました。というのは、形は違うにしても、普段からこのようなことを考えていたからです。そのため、1と2に関しては即座に頭の中で思い浮かべることができました(ちなみに私がおそれるもの3つは、死、人間、災害です)。

そして問題は3です。これはなかなか恐ろしい課題で、私は思わず、ぎくりとしました。考えたくないですもんね。しかし、私にも一応の答えはあって、それが芸術だったわけです。特に絵画でした。作品には作者の苦悩が描かれているのであり、それを見て「ああ、苦しんでいるのは私だけではないのだな」という共感を得ることができます。この共感がある種の救いとなっていたのでした。

しかし、3つ目の課題で私は確かにぎくりとしたのです。なぜか。それは、既に自覚していたのですが、作品に触れる際に「私はこの作者ほどに自分の苦悩と向き合っていない」という考えがあったからです。つまり、作品に触れることで、自分の苦悩から逃げていたのでした。要は、自分がおそれているものから解放されるものとして芸術は相応しくないことを自覚していたのです。そんな中で「解放されるには何が必要か?」と問われたのですから、ぎくりとしないわけがありません。

その後に安積さんの言葉が続くんですけども、まあ鋭いですね。人間はなかなかどん底までは行けません。というのは、自分で勝手に、ここが苦悩の最大なのだと思ってしまうからです。苦悩の先にはまだ苦悩があるのです。終わりのないトンネルのように思えてしまう。だから、ここが苦悩の最大なのだとしておけば、それより先に行かなくて済むわけです。それを安積さんは「中途半端なとこ」と表現されていました。私はまさに、芸術に触れることで中途半端なところから先に行くことができていないのでした。

このような状況において、3つ目の課題に対し「芸術だ」と言えるわけがありません。考えざるを得ませんでした。しかし、おそれる3つのものに対して何か自分にできることがあるのかといえば、ありません。自分にはどうすることもできないことを自覚し、ただただ涙を流すしかできませんでした。そのとき、既に神に頼っていることに気付いたのです。存在証明とかそういうものはなく、ただ頼ったのでした。これは信仰と言わざるを得ません。

なぜキリスト教だったのか

私は非常に疑い深い人間です。なぜそのときにキリスト教の神が出てきたのかが非常に気になりました。

安積さんもキリスト教の信仰をお持ちのようなのですが、しかし、「どん底」に到達したときに見えるのは「光」だとおっしゃってました。まあ、光というのはキリスト教を強く連想させる言葉ではありますが、うろ覚えですけども、あの文脈ではどん底からキリスト教が見えるとは言っていなかったように思います。そういう意味では、どん底から見えるのは、以前の私のように芸術であったかもしれませんし、あるいは宗教にしても仏教や神道などもあるはずであって、キリスト教である必然性はないでしょう。しかし、私はキリスト教だったわけです。なぜか?

これは端的に言ってしまえば、私の場合は最初からキリスト教だったようです。私は小さい頃からずっと「なんで生きるのかなぁ」みたいなことを考えるタイプでした。誰でも小さい頃は経験するはずですが、私の場合はそれが大人になってからも続くタイプです。

それで、まず人生に躓いた(というと大げさかもしれませんが)のが中学のときです。そのときはどうしようもなく、そんなときに校門前で新約聖書が配布されており、それに手を伸ばしました。家に帰ってさっそく読み、神を信じようとするわけですが、わけがわからないということで1週間くらいで辞めます(今思えば、中学のときに1人で聖書を読むなんてかなり無謀だったと思います。しかし結果的に信仰を得ているわけですから、協会としては大成功?)。

その後は哲学に強い関心を持つのですが、面白いのですけども、哲学では救われるというか楽になるという感覚が得られませんでした。そんな感じで次に芸術に興味を持ち、苦悩する作者を知って、そして自分なりの救いを得られた気になっていたわけです。

ここが面白いのですが、興味があったのは西洋哲学や西洋美術でした。これらの根底には結局のところキリスト教があるわけです。ちなみに、私は大学で、主に真宗について学んでいました。これは端的に言ってキリスト教文化を理解したかったからです。あまり知られていませんが、真宗はキリスト教と似ている部分が多くあります。そのため、西洋哲学や西洋美術の根底にあるキリスト教を理解したいけど、中学の失敗やキリスト教の難解さから、まずは比較的なじみのある真宗を理解しよう、そしてキリスト教にアプローチしようというわけでした。卒論は真宗とキリスト教の比較をやっています。

このように振り返ってみると、最初からキリスト教があって、キリスト教に反発しながらも距離を取ってキリスト教的価値観を受容し、最終的に自分のどん底を見たらキリスト教があった、といったところなのだろうと思います。今は26歳ですから、中学のときから約10年をかけてキリスト教に納得した、という感じでしょう。放蕩息子みたいだなぁなんて思ったりします。

さいごに

正直なところ、キリスト教を信じるようになったからといって、そんなに生活が変わったわけではありません。ただ、1つ大きな変化がありました。

人生はむなしい、バカらしい、何のために生きるの - nancolu」でまあ色々と書いてあって、読むと何とも言えない気分になるんですけども、外尾悦郎さんの「苦悩はあったほうがいいですよ」という言葉を紹介しています。記事の中では、私はそんなことは言えない、と書いてあるのですが、今の私はそう言えます。

今後、信仰があっても苦悩はするでしょう。信仰ゆえの苦悩もあるはずです。しかし、それでもなおしっかりと生きていきたいと思います。

(このブログの中で「信仰はない」と書いているところがちょこちょこあるのですが、変化を示すという意味でもそのまま残しておきます)

教会に初めて行ってきたレポートと今後どうするかについて - nancolu