「現実との区別がつかない人はゲームをしないほうがいい」



この記事の結論は、「現実との区別がつかない人はゲームをしないほうがいい」と言う人はゲームをしないほうがいい、となります。

(この記事は「ゲーム」のカテゴリに入れていますが、この記事におけるゲームは一般的な意味でのゲーム、つまり、双方向動画を含めたビデオゲームのことを指しています)

問題点

「現実との区別がつかない人はゲームをしないほうがいい」と言う人が抱える最大の問題は、リアルとバーチャルは分けることができる、リアルとバーチャルの間には明確な境界線が存在する、と考える点にあります。

実際には、リアルとバーチャルを分けることは不可能です。これはリアルとバーチャルのそれぞれが存在しないという意味ではありません。あるのはあるのですが、境界線が曖昧だということです。

リアルとバーチャルは分けられると考えてしまう原因としては、本当の意味でのリアルを知らない、「リアル」という概念を形成できていない、といったことが考えられるでしょう。

そして、このことは、最終的に、主観と客観の区別がつかない、自己形成が行えない、といったことに発展すると思われます。

リアルとバーチャルの関係

リアルとバーチャルの境界線を設定するのは不可能ですが、全体の構造としては非常に単純です。つまり、唯一のリアルの中に複数のバーチャルが含まれている、というイメージです。

一方、リアルを知らない人にとってのリアルとバーチャルの関係は、おおざっぱに言えば、複数のバーチャルの1つとしてリアルが存在している、という感じです。これはサブカルによく見られる、「これが現実よ、受け入れなさい」という表現が端的に表していると思います。つまり、彼らにとって、リアルは受け入れる、受け入れないの選択ができるものと考えられているのです。

当然ながら、リアルを知っている人はこんな考え方をしません。なぜなら、リアルは唯一なのであり、そして私たちはそのリアルの中で生きているからです。リアルを知らない人が使う「現実」という言葉は、リアルを知っている人にとっての「価値観」とほぼ同義でしょう。

リアルを知っている人と知らない人とで視覚が異なる、といったオカルトチックな現象が起きているなんてことはありません。そうではなくて、見ているものは同じなのですが、それに対する感じ方が大きく異なっているのです。

リアルを知っている人と知らない人のバーチャルへの接し方の違い

リアルで何かつらいことがあった場合で考えてみます。リアルを知っている人は、つらいと感じたことを癒すためにバーチャルに接します。そしてバーチャルによって癒されたら、「よし、また頑張ろう」とリアルに戻っていきます。リアルとバーチャルがつながっているのがポイントです。

一方、リアルを知らない人は、リアルのつらいことをバーチャルで癒すということはしません。バーチャルに触れることで、バーチャルに触れている間は、リアルでのつらいことをなかったことにするのです。なので、バーチャルに触れている間は元気なのですが、リアルに戻る際は「ああ、いやだな」とつらいことを引きずることになります。リアルとバーチャルが分断されているのがわかるでしょう。

リアルを知っている人とそうでない人ではバーチャルの好みが異なります。リアルを知っている人は、リアルに即したバーチャルを好みます。例えば、小説であれば、主人公が自殺未遂をしたり人を殺してしまったりと割とめちゃくちゃなことになっているのですが、それがバーチャルであるかこそ普遍性が生まれるのであり、そこにリアルを重ねることができるのです。このような小説はかならず感情移入ができるように作られています。だからこそ、リアルでのつらいことがバーチャルによって癒される、ということが起こるのです。

一方、リアルを知らない人は、リアルであることを意識させないバーチャルを好みます。例えば、同じように小説で考えると、この場合はラノベという形になる傾向があるのですが、感情移入が起きにくいようになっているのが特徴です。普通に物語が進んでいるところに、いきなり「この後の展開どうすんのよ!」といった表現がなされ、バーチャルがバーチャルであることを読者に強く意識させます。リアルとバーチャルが分断されており、リアルでのつらいことをバーチャルで癒す、ということは起こりません。これは、端的に言えば、バーチャルを現実逃避として利用しているということです。なので、バーチャルに触れている間は元気だけどリアルではずっと悶々としてしまい、また人によってはバーチャルに引きこもろうとします。しかし、バーチャルに入ることで逃げ切れたと思っていても、そのバーチャルはリアルで展開されているのですが。

主観と客観

リアルを知っている人は、リアルを見、そしてリアルの中に自分を位置づけようとします。そのため、リアルと対峙する形で自己形成を行うことができます。

一方、リアルを知らない人は、何がリアルかがそもそもわからないのですから、自分をリアルに位置づけるということはできず、自己形成も十分には行われません。これはどういう状態であるかというと、リアルは客観と言い換えることができますが、主観と客観の区別がつかないということです。

ゲームやアニメでよく使われる表現として、主人公の個人的な選択で世界が滅ぶ、というものがあります(いわゆるセカイ系。2016年に公開された映画『君の名は。』もセカイ系です)。これは主観と客観の区別がついていない典型的な例で、本来、世界には自分以外にもさまざまな要素があるのですが、リアルを知らない人はそういった要素も知らないので、自分の言動が直接的に世界に影響を与えるという、普通に考えれば明らかにおかしいことが当たり前のこととして受け入れてしまうのです。

これは、幼児が他の泣いている幼児を見て、わけがわからず自分のことと受け取ってしまい、同じように泣いてしまうのと似ています。自分と自分以外のものの区別がついていないのです。

主観的に考えられない

リアルを知らない人は自己形成がうまく行えていない傾向にあるため、主観的に考えることができません。自分で物事を判断することができず、自分に自信がないために、客観的なものや権威などに頼ることになります。

偏差値の高い大学に行くことが素晴らしい、上場企業に就職すると良い人生が送れる、銀座の高級料理店だから美味しい、年収が高いからすごい、みんなが笑っているから面白い、モノを捨てた数で幸福度が決まる(ミニマリストのこと)、などなど。

偏差値や年収という客観的な数字、「上場企業」や「銀座」といった権威、記号、これらだけを見ているのが特徴です。自分にとってどうなのか、という視点が完全に欠落しています。リアルを知らない人は、そういった客観的指標や権威といったものをリアルそのものだと認識してしまっているので、極めて狭い生き方しかすることができません。

さいごに

「現実との区別がつかない人はゲームをしないほうがいい」と言う人は、とりあえずゲームはしまっておいて、川でザリガニ釣りをする、森でカブトムシを捕まえる、といった、それこそ小学生がやるような遊びをバカにせずやってみてほしいと思います。といったときに、「そんな川とか森なんかあるか」と反論されそうなのですが、まさにその「都会」が盛大なバーチャルであることに気づいてもらいたいところです。

さて、さいごなので書いておきたいのですが、「現実との区別がつかない人はゲームをしないほうがいい」と言う人が思っているところの「ゲーム」は実はゲームではなく、ただの動画です。本当のゲームは将棋などのように豊かな複雑性を持っています。リアルを知ることができれば、本当の意味でのゲームを楽しむことができるようになるでしょう。