『ミュウツーの逆襲』の解説と感想


20年前に発表された『ミュウツーの逆襲』のリメイクが出るということで、久しぶりに見てみました。その簡単な解説と感想です。

サトシはなぜ石になったのか

本作の一番の謎はおそらくここでしょう。映画を見たついでにネットで他の人の感想なども確認したのですが、サトシの石化について、「なぜ石になるのかわからん」「お涙頂戴で面白くない」みたいのが多々ありました。やっぱり気になる場面なのだろうと思います。もちろん、解釈は人それぞれあると思いますが、一応この部分について解説してみたいと思います。

結論から言うと、サトシが石化したのはアイデンティティを喪失したからです。ミュウとミュウツーの攻撃を受けて致命傷を負ったからではありません。

映画の冒頭からミュウツーが「ここはどこだ、私は誰だ」とか「誰が生めと頼んだ?」みたいなことを言って苦悩していますが、ここに端的に表れているように、本作のテーマはアイデンティティです。

ミュウツーは、幻のポケモンであるミュウの遺伝子から人間によって作られた存在です。そのため、ポケモンでもなく人間でもない自分という存在に悩んだのでした。そして、人間に対する逆襲として、トレーナーからポケモンを奪い、そのコピーを作成して、本物とコピーを戦わせます。ミュウツーの考えとしては、強い方こそが「本物」であり、本物に対するコピーの勝利が、コピーとして生まれたものとしての存在意義であるようです。

このミュウツーの企てに巻き込まれたサトシは、本物とコピーの戦いを見て、言いようのないものを感じました。これは何か違う、間違っていると感じたのです。そして、ミュウとミュウツーの強烈の攻撃の中に飛び込み、戦いを終わらせようとしました。そして問題の石化が起こるわけです。

このことは案外忘れられがちなのですが、サトシはポケモントレーナーです。ポケモントレーナーとはポケモンを戦わせる人のことをいいます。そのサトシがポケモンの戦いに否をつきつけました。つまり、サトシは自らアイデンティティを捨てに行ったのです。そして行動指針がなくなり、身動きが取れなくなった。その結果が石化なのです。

攻撃を受けたから石化したという理解は、戦いを止めるサトシの行動に意味を見いだせないことと、そもそもポケモンの世界に石化という発想がないことから、ちょっと安直すぎるのではないかと思われます。

アイデンティティを確立するには?

ここからは私の感想を入れていこうと思います。サトシのアイデンティティの復活(石化の解除)とミュウツーの納得はなぜ起きたのか、というのは大きな問題です。サトシに関してはポケモンの涙があると考えることもできますが、ぶっちゃけ、面白くありません。また、ミュウツーに関しては、何の解決にもなっていません(これは私だけでなくネットでもよく見られた意見でした)。

私が思うに、2人(1人と1匹)のアイデンティティ問題を解消したのは、他者との関係が生まれたからです。そもそも、「私」というのは一種の物語です。学生としての私、会社員としての私、ポケモントレーナーとしての私、などのように何らかの属性を外から借りてきて、それらが1つに結ばれる焦点が「私」です。そのため、「私」という固有の系を仮定して、そこから「私」そのものを導き出そうとすれば、失敗するのは当然というべきでしょう。自己言及は失敗するのです。

ポケモントレーナーであるサトシがポケモンの戦いを止めることで石化しましたが、おそらく、石である間、一人で葛藤したのだと思います。しかし、やはり一人で答えを出すことはできない。そこに、ポケモンの涙という形(石と対話はできないので、しみこむ感じのする水、それも心との関係を持つ水は、たしかに合理的です)で、ポケモンとの関係が生じます。だからこそ、サトシはアイデンティティを更新できたのでしょう。

また、ミュウツーも、以前は自問自答をするしかなく、塞ぎ込んでいましたが、サトシという人間の予想外の介入により、他者との関係性が生じて、納得に至ったのだと思います。たしかに、ミュウツーの問題は何も解決はしていません。しかし、これは本人にしか理解できない「体験」であり、このことについて傍観者がどうこう言えるものではありません。ミュウツーはたしかに変わったのです。ミュウツーにとっては事実なのです。

さて、アイデンティティを形成できないで苦しんでいるのは、なにもサトシとミュウツーだけではありません。20年前に大ヒットし、そしてそれがリメイクされる程度には、やはり何か触れるものがあるのでしょう。私たちもアイデンティティがわからず、苦しんでいるのかもしれません。では、アイデンティティを形成するにはどうすればいいのでしょうか。

私は2つの要素が欠かせないと思っています。1つ目は、サトシやミュウツーが経験したのと同じ他者との関係です。そもそも、アイデンティティは自己同一性であり、同じということです。同じであることを理解するためには違いを理解しなければならず、ゆえに他者との関係が不可欠です。ネットが発達した今では、面白いことに、いろいろな意見を探せるにもかかわらず、結果的には自分と同じ意見を見つけては安心するということが起こっています。興味深いことに、この前提には「私は他の人とは違うのだ」という理解があります。「一般」が理解できない人がいるのもこれと関係するでしょう。

2つ目は、反抗あるいは葛藤です。これもミュウツーやサトシが経験していることです。わかりやすさのためにミュウツーだけで考えますが、彼は人間に対して徹底的に反抗しています。この反抗は他者の違いを意識し、自己の輪郭を明確にするのに非常に重要な役割を果たします。しかし、現代では、反抗をすることが難しくなっています。本来であれば反抗期や中二病といった時期を通して反抗を経験するのですが、こういった反抗が恥ずかしいものとして理解されるようになりました。そのため、本来経験しておくべきことをしかるべきときに経験できなかった人が非常に多いです。この典型的な例が少し前に流行った「ちょい悪オヤジ」で、オヤジになってようやく反抗を覚えたのでしょう。ミュウツーの「誰が生めと頼んだ?」といった中二病的発言に対して、「子供っぽい」という意見がネット上で確認できたのですが、もしかすると反抗を経験できなかったのかもしれませんね。

しかし、反抗は重要であるものの、反抗しているだけではまだアイデンティティは形成されていません。反抗するということは、何かしら正しいと思われるものが前提にされているのであって、ゆえに外部の価値観から脱することができていないからです。つまり、アイデンティティは反抗の先にあるものです。そして、また、この点においてもミュウツーが経験しています。サトシを通して納得することができた。この納得に至る「体験」は主観的なものであり、傍観者がどうのこうの言えるものでないことは先ほども書いた通りです。

『ミュウツーの逆襲』の評価

脚本家は首藤剛志さんという方なのですが、脚本を会議に出した時はかなり批判が出たそうです。というのも、暗いからです。首藤さんとしては、子どもに付き添って映画館に来るのは大変だから、大人も楽しめる要素を入れておこうと考えたらしいのですが、やはりこの暗さはマズイのでは?とか言われたみたいですね。結果的に、この暗さがウケたのですけども。

しかし、あくまでも、大人も楽しめる子供向け作品という位置付けなのでしょう。そういう意味では、ポケモンの涙や夢オチのように、徹底していない部分があるのは当然なのかもしれません。逆に、子供向けの作品に対して大人たちが「ミュウツー全然解決してなくね?」と指摘する程度には、やっぱり惹きつけるものがあるのでしょう。リメイク版は、子供も対象にしていますが、同時に明らかに当時子どもだった大人を対象にしています。子供向けコンテンツが売れないという背景もありますが、この変化はかなり大きいのではないでしょうか。リメイク版に対する評価が気になるところです。

あと気になるのが海外の反応です。『ミュウツーの逆襲』は世界でも公開されたのですが、一神教関連からの批判が目立ちました。キリスト教からは賛否両論といったところだったのですが(といっても私は当時小学生だったのでリアルは知らないのですが)、イスラムからは批判が多かったようです。おそらくリメイク版も海外で公開されるとは思うのですが、20年経った今、どう評価されるのかが気になります。

まとめ

非常によくできた作品だと思います。面白いですね。内容が面白いのは言うまでもありませんが、評価や影響など、いろいろな視点からとらえることができて興味深いです。改めて首藤さんはすごい人だったんだなぁと感じました。リメイク版の脚本が誰か知りませんが、相当苦労しただろうなと想像します。テレビ版、劇場版問わず、ポケモンアニメは首藤さんの影響がすごいですね。