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なぜ私は日本が嫌いなのか


本屋をぶらついていると「なぜ日本人は日本が嫌いなのか」的なタイトルの本が目に入りました。手にとってもいないし、内容もまったく知らないのですけども、なんとなく「なぜあなたは日本が嫌いなのですか?」と問いかけられているような気がしたので書いてみます。

国は概念

いきなり話がずれるような感じになるのですが、私は日本に対して好き嫌いで評価するのは違うような気がしています。というのは、日本に限らず国は仕組みであり概念に過ぎないからです。

変な話になりますけど、地球上に国境はありません。人間の都合で頭の中に作っているだけです。たしかに国境の上に柵とか壁とかがある場合もありますけど、それでも人間の意図的なものであって、自然として国境があるわけではないでしょう。国はバーチャルなのです。しかしだからといって、国は存在しないといっているのではありません。私達が生活をしていくにあたり、実際に国は機能しているのであって、リアルです。

つまり、国は私達一人ひとりが可能な限り平和で自由で安全な生活を送るための、人間が作り出した仕組みであって、それ以上でもそれ以下でもありません。なので、それに対して、好き嫌いで評価するのはなんか違う、評価するとすれば良いか悪いかではないか、と思うのです。

たとえとして適切かどうかちょっと自信がないのですけども、「日本は好きですか?嫌いですか?」と聞かれるのは、「あなたは道路交通法が好きですか?嫌いですか?」と聞かれているようなものだと私には感じられます。好き嫌いではなく、悪いところがあれば改善策を考えるべきで、良いところはどうすれば今後も維持できるのかを考えるべきだと思うのです。

日本を取りまく人々の対応は嫌いかも

しかし、「なぜあなたは日本が嫌いなのですか?」と問いかけられた気がしたとき、たしかに引っかかるものがありました。考えてみると、日本そのものに対する好き嫌いは違うけど、日本をとりまく人々の対応はたしかに嫌いかもしれません。

日本は概念に過ぎないのに、それに熱狂する人たちが少なからずいます。私はそれに対して違和感があり、もしかすると、嫌いということなのかなと感じます。

直近のいい例では令和です。年号が平成から令和に変わりました。テレビを見る限りでは、みなさん令和をかなり喜んでいるようで、これから新しい時代が始まることが嬉しいですとか、そういったコメントが目立ったと思います。しかし、年号が変わっただけであって、年号が変わったことにより時代が変わったりするわけではありません。時間は連続しているのですから、令和という新しい年号になったところで、災害がなくなったりとか、事件事故がなくなったりとか、そういうことはありえないわけです。令和に歓喜した人たちは日本に概念以上のものを見たのだと思うのですけども、私には概念としか思えません。

これはちょっと言いすぎかもしれませんが、戦争のことを考えてしまいます。日本は国のために、天皇のために戦いました。戦争で死んだら立派なことをしたとされ、祀られるのです。国が犠牲に対して倫理的正当性を与えたわけです。

くどいですが、国は概念です。なのになぜそこまでできてしまうのか。私には宗教に思えるのです。現代の場合は戦争のときほどひどいものではないですが、近いものはあるのではないかと感じます。

まとめ

私が日本、というよりも日本をとりまく人々の対応に違和感を覚える(たぶん嫌いなのだと思います)のは、それが宗教に見えるからだと思われます。