内向型と外向型の双方が互いに理解し合う必要がある


『内向型を強みにする』を読んで

マーティ・O・レイニー著『内向型を強みにする』を読みました。説明が非常にわかりやすく、なるほどと思えるところが多かったです。私自身、人間関係でいろいろと悩みを抱えることが多いのですが、本に書いてあった内向型のチェックリストの大部分に該当していました。私が学生のときは発達障害などを疑ったこともあるのですけど、「あなたはただの内向型です。どこかがおかしいわけではありません」と言われると安心するものです。

この本は内向型の特徴をあげたうえで、なぜそのような特徴がみられるのかを生理学的に説明しており、説得力があります。正直なところ、私は専門家でも何でもないので、その説明について吟味することができないのですが、読んでよかったと思える内容でした。

また、内向型が社会の中で生きにくいと感じるのは、世の中の大部分が外向型の人間であり、かつ外向型的特徴が評価されるようになっているからであるようです。そしてだからこそ、幼少期には親や教師などから外向型になるよう矯正され、抑圧を感じるようになり、自己表現することに抵抗が生まれてしまいます。自己表現するには一度頭の中で整理しなければなりません。そのことが外向型には黙っているようにしか見えず、場合によっては何かを隠しているようにも思えるため、イライラしてしまうわけです。本書には書かれていませんが、そういったことがいじめなどにも発展するのかもしれません。

内向型は外向型から構造的暴力を受けているかもしれない

この本を読んで感じたのは、内向型は自分の能力をしっかりと発揮できていないということです。そしてその理由は、外向型的特徴が評価されるようになっているからです。本にも書かれていて、また私自身もそういうところがあるのですが、内向型は何か問題があったときに自分を責める傾向があります。そのために仕事を辞めたりといったことにも発展します(私も辞めました)。

このように、外向型敵特徴が評価され、そのために内向型が能力を発揮できていないのであれば、それは構造的暴力といっていいのではないかと私は思うのです。構造的暴力は以下のように定義されます。孫引きになってしまいますがウィキペディアから引用します。

ある人にたいして影響力が行使された結果、彼が現実的に肉体的、精神的に実現しえたものが、彼のもつ潜在的実現可能性を下まわった場合、そこには暴力が存在する(引用:構造的暴力 - Wikipedia

暴力というと、殴ったり蹴ったりといった直接的なものを想像する人が多いと思われますが、そういったものがなくても、抑圧や差別などがあればそれは暴力なのです。内向型が外向型から抑圧されているのならば、それは暴力なのではないのか、と私は思うわけです。

ここ最近、非常に事件な事件が多発しています(新幹線で暴れたりなど)。これは、外向型による構造的暴力への、内向型の反発として解釈できるかもしれません。あまりテキトウなことは言えませんが、報道を見る限りでは犯人には内向的なところがあるように私には思われました。もしそうであるならば、事件という表面的なところだけを取り上げ、それに対して「大人しい人は何をするかわからない」と言っているのであれば、その無関心こそが事件を生み出したのではないかとすら思えてきます(もちろん、直接的暴力は許されるものではありません。直接的を擁護しているわけではないので勘違いしないでくださいね)。

内向型と外向型の対立構造

外向型(の一部)は内向型に対して否定的な言説を行います。例をあげるまでもないでしょうが、典型的なのは、内向型は人づきあいが悪く、根暗で、オタクで、といったものです。外向型は傾向として思ったことをそのまま言ってしまう(ワンクッションがない)ので、このような言説が出てきやすいようです。

しかし、これは外向型だけではありません。内向型も、外向型からの言説に対して反発をします。内向型は外向型ほど表現をしない傾向にあるため、言説も少ない傾向があるのですが、それでもやはり存在します。典型的なところでは、外向型は思慮が足りなくバカで、祭りなどで騒いでばかりいる、といったものです。

さらにそこから発展して、これらの言説がアイデンティティに結びつくこともあります。これは内向型に多いのですが、エジソンやアインシュタイン、ジョブズといった、内向型的特徴を持つと思われる偉人を取り上げ、「内向型は考えることができるのだ、我々内向型がいるからこそ社会は成り立っているのである」といった言説をします。つまり、内向型の極端に優れた部分を取り出し、それが理想であるにもかかわらず、それを本来の自己であると主張するわけです。

ここに虚像としての内向型と外向型が確認できます。外向型は「内向型は根暗だ」と言い、内向型は「外向型はバカだ」と言い、さらにそれぞれが理想としての自己像を作り上げます。お互いがお互いの実像を見ることができていません。勝手に虚像を作り上げ、その虚像に対して文句を言い合っているわけです。

インターネットが発達したおかげで、誰もが簡単に情報発信できるようになりました。しかし、それによって虚像もまた増殖します。この虚像の増殖はさらなる対立を生み出すことでしょう。

現状としては外向型が比較的有利に動けるわけですが、だからといって内向型が外向型を非難していい理由にはなりません。

お互いの実像を捉えるために

虚像を持ち出しても何も発展しません。虚像にあふれた状況を解決するには、対話をして、お互いの実像を理解し合うしかないでしょう。対話の機会はいろいろな形で行われているのですが、問題点もあります。

外向型は企画を通して内向型との接触を試みることがよくあります(たいてい内向型としてではなく、何らかの形で問題を抱えた人、たとえばひきこもりなどに対しての企画として行われることが多いです)。しかし、(向型としての企画ではないので当然と言えば当然ですが)その場に参加いる時点で、参加者にはそれなりの外向性を持っていることが想像されます。本当に接触しなければならないのは、そのような企画に参加できない人でしょう。

一方、内向型は内向型と集まってお互いの苦労を話し合う、ということをするようです。これ自体は非常に大切なことでしょう。しかし、社会で生きて行く以上、外向型との関わりは避けられないのですから、内向型だけで集まるのではなく、外向型との話し合いも必要ではないでしょうか。いきなり外向型の集まりに行くのは無理ですから、内向型の集まりに外向型を呼んで、外向型が内向型をどのように理解しているのかを話てもらう、それに対して内向型が答えたり質問をして、お互いを理解していく、ということがあってもいいかもしれません。

まとめ

もっともよくないのは無関心です。他者に対して無関心であるからこそ虚像がうまれ、その虚像が暴力への正当な理由を生み出してしまいます。暴力は許されません。

虚像を生み出さないためにも、お互いに理解しあうことが重要でしょう。