人生はむなしい、バカらしい、何のために生きるの



人生はむなしい

私は小さい頃からどうも死ぬのが怖くて、ある意味、障害じゃないかと思うところもあるくらいです。酷い時は外出するのが怖かった時もありました。今では多少マシにはなりましたが、でもたまには怖い時もあります。まあ家にいても、地震が発生して瓦礫に押しつぶされたり、不審者が侵入してきて襲われたりして死ぬかもしれないんですけども。

人間は、いつかは死ぬことが分かっているわけですが、分かった上でも生きていかないといけないといけません。こんなこと言ったら失礼でしょうけども、別に生まれたいと思って生まれてきたわけではないわけです。気づいたらこの世界にいたわけです。しかも、いつかは死ななければならない。でも生きなければならない。生きている間には不条理とか苦悩とかがあるのに。

たまに就活生が「仕事の楽しいところは何ですか」みたいなことを言いますけども、仕事なんか楽しいわけがありません。ではなぜ、そのような苦痛に満ちた仕事をしているのかというと、お金を稼ぐため、つまりは生きるためということになるのでしょう。では、何のために生きるのか、となると途端に答えられない自分がいます。意味もなく苦しむのか(別に仕事に限ったことではありませんが)。

コヘレトの言葉4章2‐3節にはこう書いてあります。

既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。

コヘレトの言葉が書かれたのは、今から2000年以上も前なのですが、こういう考え方は昔からあったようです。

そういえば、NHK「こころの時代」において、理論物理学者の大栗さんと仏教学者の横山さんが対話されたとき、大栗さんがスティーブン・ワインバーグの「宇宙のことがわかるにつれてそこには意味がないように思えてくる」という言葉を紹介されてました。昔から人生に意味がないことは言われていたようですが、現代になってもやっぱり意味はないのでしょう。

人生にどう立ち向かうか

こういうことを言うとすぐに自殺とかに結び付けられてしまうのですが、いやいや、なぜ私が死ななければならないのか、という話です。「死にたい」ではなく「生きたくない」といった感じだと思います。あるいは「生まれたくなかった」でしょうか。とにかく、その点は誤解しないでいただきたいんですけども。

しかし、生きたくない、生まれたくなかった、と言ったところで今まさに生きているのですから、どのように生きて行くか、人生にどう向き合っていくべきなのか、といった点が問題になってくると思います。人生というのは、極論、意味がないということを分かった上で、なおやらなければならない、という矛盾があると思うんですけども、この矛盾に立ち向かうにはどうすればいいのか。

生きたくないと言いながらダラダラと生きて行くのも、1つの態度ではあると思います。しかしそれは何かが違うように感じられます。

なんでしょう、矛盾と分かっていても、その矛盾にむしろぶつかっていくような、そんな態度が望ましいように感じられてなりません。矛盾への反抗というか。それでは、その反抗とは何かというと、私はやっぱり芸術だと思います。芸術とまではいかないにしても、表現するということは非常に大切なことだと思っています。

大栗さんは対談の中で「幸せとは、そのものに備わっている機能を十分に発揮すること」とおっしゃられたのですが、私は幸せとは人生を肯定することだと考えているので、私にとっては幸福な人生というのはあり得ないんですけども(でも良い人生はあると思います)、でも「そのものに備わっている機能を十分に発揮すること」というのは、人間に当てはめるなら、まさに表現であると思います。

外尾悦郎さんが同じく「こころの時代」で(別の回ですが)、「苦悩はあったほういいですよ」とおっしゃられていました。私はそんなこと言えないのですが、でもそう言えるような状態が理想なのだろうと思います。苦悩があるからこそ表現することができるはずです。その表現で人生とおもいっきり喧嘩してやりたいですね。そのうち仲良くなっているかもしれません。

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