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ミニマリストの宗教性


以前「ミニマリストはここがおかしい - nancolu」という記事で、ミニマリストに感じる違和感の正体について書きました。もうかなり時間が経っているのですが、今でも基本的な考え方は変わっていません。さて、この記事でミニマリストと宗教の関係について少しだけ触れているのですけども、今回はこの関係について、別の視点から考えてみたいと思います。

犠牲

今回注目したいのは犠牲です。現代の感覚からすれば犠牲と宗教の関係はわかりにくいかもしれません。しかし、昔話などでよく見られるのですが、巫女が神に捧げられるような場面が出てくることがあります。このように、太古の宗教では、神と関係するためには犠牲が必要とされていました。

少し話がそれますが、キリスト教では、キリストの十字架で犠牲が終わったと考えます。なので、成立した当初から犠牲を捧げることがありませんでした。しかし、ローマ帝国にとって宗教とは犠牲を捧げることでしたから、キリスト教は宗教ではなく迷信として理解されていたのです。このように、犠牲と宗教には深い関係があります。

ですので、犠牲に注目することによって、宗教性の度合いをある程度は知ることができます。

犠牲の祭儀を構成する要素

ミニマリストと犠牲の関係について考えてみます。犠牲の祭儀を構成する要素として、ある研究者は次の7つを指摘しています。

  1. 行為
  2. 儀礼
  3. 超越性
  4. 交換
  5. 変容
  6. 連帯
  7. コスモロジー

必ずしもすべてがあるというわけではないのですが、多くの場合、これらの要素が見られるということですね。それでは具体的にミニマリストの場合を確認してみます。その際、超越性は一旦飛ばして後述します。

行為

神に捧げる動物や物質を燃やしたりするような、そういった具体的な行為のことです。祭儀によって行為の内容は異なるのですが、とにかく何かしらの具体的な行為が伴います。

ミニマリストの場合は「捨てる」という行為を指摘することができます。ミニマリストはどんどん不要なものを捨てていくわけですが、これこそがまさに行為に当たるものです。

ちなみに、言うまでもないと思いますが、この不要なものを捨てることこそがミニマリストにとっての犠牲に当たります。

儀礼

儀礼は日常と非日常を分けるものとして考えてください。これも祭儀によって内容がかなり異なるのですが、例えば、生贄の周りをぐるぐると歩くとか、そういうのがあげられるかもしれません。

ミニマリストの場合、SNSやブログなどへの投稿が指摘できます。彼らは不要なものを捨てるだけでなく、たいていの場合、「今日は〇〇を捨てました〜」のように、捨てたものや数をSNSなどに報告しています。SNSやブログといったものと非日常との関係について書くと長くなるので省略しますが、リアルとバーチャルとの関係として捉えるとわかりやすくなるかと思います。

交換

交換は犠牲に対する見返りです。例えば、巫女を捧げたのだから村に平和をもたらしてくださいね、というような感じになります。

ミニマリストの場合は、不要なものを捨てたのだから幸福になれるはずだ、というようなものです。ミニマリストは単に不要なものを捨てているのではなく、幸福になるために捨てています。

ちなみに、普通、交換は、価値のあるものを手放すことによって成立します。巫女であれば村一番の美女を選ぶとかそんな感じです。一方、ミニマリストの場合、不要なものを捨てているわけですから、その意味では価値がありません。しかし、彼らにとって不要なものでも捨てるのにはかなり苦労しています。というか、そもそも、たいていの場合、彼らは自身にとって何が不要であるのかをわかっていません。その意味で、捨てる瞬間にはそれはまだ彼らにとって価値が認められるものであり、価値を認めながらも「不要なんだ」と思い込むことによって捨てているのです。

変容

変容はそのままの意味で、変わっていく様です。ミニマリストの場合は、ものを捨てていくことで本人が笑顔になっていく様子を見ることができます。何もない部屋で笑顔を振りまいている人の様子はテレビでよく放送されていましたね。

連帯

これは、儀礼に関係する人々の連帯が強まっていくことをいいます。おそらく、多くの人は地元のお祭りなどでお神輿を担いだことがあるかと思います。そのとき、一緒にお神輿を担いだ人と関係が深くなったりしたことがあるのではないでしょうか。そういうことを意味しています。

ミニマリストの場合、個人のやることなのだから連帯なんてないと思われるかもしれません。しかし、実はあるのです。先程も書いたように、ミニマリストはものを捨てた後にSNSやブログなどで報告します。ここにコミュニティがあるのです。ものを捨てて幸福を目指す者同士がその苦労を共有しているのです。

コスモロジー

要は宇宙観です。自分の生きている意味や原点といったものが宇宙との関連で語られます。神話をイメージしていただければよいでしょう。

ミニマリストの場合、コスモロジーが明確に提示されているわけではありません。しかし、こんまりメソッドでも有名な近藤麻理恵さんの発言にも見られるように、ものを捨てていくことで生き方が変わっていくと言われます。なので、具体的には語っていないものの、ものを捨てていくことで自分なりの何かが見えてくるようです。これはコスモロジーの一種といってよいでしょう。

ミニマリストにおける超越性

以上のように、ミニマリストには、犠牲の祭儀が持つ要素を含んでいることが確認できます。よく「ミニマリストは宗教的だ」と指摘されますが、やはりそれは当たっているでしょう。しかし一方で、ミニマリスト本人は宗教であることを否定します。つまり、人によって解釈が異なるわけですね。

この解釈の幅を生んでいるものこそが、さっき飛ばした超越性なのです。宗教においては普通、何からの超越性を含みます。たとえば、神や仏といったものが代表的でしょう。しかし、ミニマリストにはそれがありません。だからこそ、ミニマリストは宗教的にも見えるし、宗教ではないようにも見えるのです。

しかし、本当にミニマリストには超越性の要素が欠けているのでしょうか。私には何かあるように思われます。それは、おそらく霊性でしょう。より一般的な言葉を使うならば、スピリチュアル(正確にはスピリチュアリティ。スピリチュアルは形容詞ですからね)です。

霊性は自分の中にある内部的なものです。自分の外部にあって、それを信仰するというような性質ではありません。霊性は目覚めてくるものなので、今は小さいけれども、徐々に覚醒してくるというようなイメージです。そして、霊性を覚醒させる手段としてものを捨てるという行為があるのでしょう。ミニマリストを極めて霊性が覚醒するようになると、おそらくそれは先程も書いたコスモロジーと一致するはずです。霊性は今は目覚めていない、だからこそコスモロジーを明確な形で提示できない、でもそれは確かにあるのだ、といったところではないかと思われます。

まとめ

私に言わせれば、ミニマリストは宗教です。しかし、ミニマリストはその宗教性を可能な限り脱色させているように思われます。このような宗教性を脱色した宗教というのは現代的なもので、合理主義と宗教の融合みたいなのが垣間見れて興味深いです。