ミニマリストはここがおかしい



「ミニマリスト」(ミニマリズム)というライフスタイルが人気です。2015年には流行語大賞にノミネートされていることからも人気の高さがうかがえるでしょう。このライフスタイルを実践している人にはある傾向があり、その傾向は現代ならではの問題を端的に示しています。この記事ではその問題点について簡単にまとめます。

「無駄なモノは持たない」という特殊性?

ミニマリストの定義は非常にあいまいで、人によって使い方が異なっています。しかし、基本的に共通する考え方としては、無駄なモノは持たず、必要なものだけで生活をしていく、といったところでしょう。これが、他のライフスタイルとは異なる、ミニマリストの特殊性、独自性です。

しかし、よくよく考えてみれば(別にそれほど考えなくてもいいのですが)、無駄なモノを持たないというのは当たり前のことです。なぜわざわざ無駄だとわかっているモノを持つ必要があるのでしょうか。モノを所有するのは、そのモノに必要性がある、あるいは、あるように思われるからです。

確かに、無駄だとわかっていても、捨てるのが面倒、処分にお金がかかってしまうなどの理由でそのまま放置してしまっていることはあるでしょう。しかし、それは単に捨てるのを怠っているだけであり、生活に関しては「必要なモノ」だけで回っているはずです。

このように考えると、ミニマリストは、単に、掃除に熱心な人でしかありません。ミニマリストの本当の特殊性は、「ミニマリスト」という名前そのものでしょう。

ミニマリストと掃除に熱心な人との違い

ミニマリストを自称する人やミニマリストを目指す人と、掃除に熱心な人ではいくつかの違いが見受けられます。

第一にモノの数です。ミニマリストは、自分が所有しているモノの総数や処分したモノの数に重きを置くのに対し、掃除に熱心な人は片付いた様に関心を持ちます。もちろん、ミニマリストにおいても片付いたことに関心を持つ人はいますが、ブログなどを見ていると「今日は○○を捨てました」や「毎日○○個、捨てるように頑張ります」など、全体よりも個を意識していることがうかがえます。

第二に手段と目的です。ミニマリストはモノを捨てることそれ自体を目的としているのに対し、掃除に熱心な人は何らかの目的があって、その目的達成の手段として捨てるということをします。ミニマリストにおいても、モノを捨てることで幸福になれる、と言われることがあるため、幸福という目的があると考えられるかもしれません。しかし、多くの場合、その内容は極めて抽象的で、モノを捨てている本人ですら理解できておらず、盲目的にモノを捨てていることもあります。

これらのことを考えると、ミニマリストは、傾向として、数という客観的な指標や、「ミニマリスト」や「捨てる」といった記号、形式に重きを置いていることがわかります。

アイデンティティの欠如

客観的指標やわかりやすい記号、形式に頼るのはなぜでしょうか。これは端的に言えば、主観的に考えることができないからです。

ここまで「無駄」や「必要」という言葉を当たり前のように使ってきましたが、これは価値判断を含みます。例えば、着物というモノを考えてみましょう。日本の伝統などが好きな人や美的感覚に優れた人などであれば、着物は素晴らしいもので、必要だと考えるでしょう。しかし、合理性や利便性を追求する人であれば、着物は着にくく、管理も面倒なので無駄と考えるかもしれません。

これはどちらが正しいというものではありません。重要なことは、同じモノでも、人によって無駄なのか必要なのかは異なるということです。この、無駄や必要といった基準は主観的なものであり、自分で考えなければなりません。ミニマリストは、自分にとって何が無駄で何が必要かを判断できないがために、捨てたモノの数にこだわるのです。自分に自信がなく、主観的に考えることができないため、客観的なものに頼らざるを得ないのです。モノを捨てた数や捨てるという形式が、個人の行動に正当な根拠を与えます。そうしなければ安心できないのです。

ここまで考えると、「ミニマリスト」という言葉からは悲痛な叫びが聞こえてきそうです。

自分に自信がない、何者かになりたい。しかし、人と違うことをするのは不安だ。

つまり、無駄なモノを捨てるというありふれたことを、別の形で提示したのがミニマリストだったのです。ミニマリストを名乗ることで自分は他人とは違うのだと信じつつも、ミニマリストが流行語大賞にノミネートされる程度には、人々からの支持を得なければならなかったのです。

それではなぜ、モノを捨てるという行為が選ばれたのでしょうか。ありふれたものであれば、それこそ数えきれないほどの行為があるのに、それが選ばれたのにはどのような必然性があったのでしょうか。

2つのミニマリスト

一言で言えば、消費への抵抗です。しかし、消費しても満足感が得られないから消費しない、といった単純なものではなく、複雑な構造があります。また、ミニマリストはアイデンティティの欠如が関係しているのですが、別の形でミニマリストを名乗る人がいることも指摘しておかなければなりません。実は、ミニマリストは2種類存在しているのです。

1つ目のミニマリストは、ここまで説明してきたように、アイデンティティの欠如によって生まれたタイプです。このタイプは消費に対して抵抗するものの、消費に対する憧れがあります。

テレビやネットなどのメディアが発達したことで、従来では知ることのできなかった世界を知ることになりました。従来では、完全にあちら側だと思っていたドラマのような世界を、自分と同じような人が体験しているという事実(実際には虚構であっても、当人にとっては事実です)を知ることになります。

あの人は華やかな生活をしているのに、どうして私はそうではないのか。自分で努力をして這い上がれればいいのですが、そうはいきません。そのため、ややひねくれたことになります。それが価値の転倒です。あの人たちは豊かに楽しんでいる、私が苦しんでいるにもかかわらず。だから、あの人たちは悪いのであり、そうではない私は善いのだ。

しかし、これだけではただの負け惜しみになってしまいます。そこで出てくるのが仏教です。消費に憧れを抱くミニマリストの多くは、モノを捨てることに対して、仏教の修行を持ち出して理論武装します。「ミニマリスト 仏教」で検索すれば、それについて書かれたブログ記事を容易に見つけることができるでしょう。仏教という権威を用いているところは興味深いところです。このようなタイプのミニマリストを仏教的ミニマリストと呼びたいと思います(これは仏教が劣っていると言っているのではありません。念のため)。

ちなみに、仏教ではなく、アップル社を創業したジョブズが持ち出されることがありますが、彼はミニマリストではなく、掃除に熱心な人でしかありません。なぜなら、彼には、革新的なアイデアを生み出すという目的があったからです。しかし、この場合でも、「ジョブズ」という権威を持ち出している点は注目すべきでしょう。

2つ目のタイプは、消費に対して抵抗しているものの、いつでも消費ができる人たちです。消費はできるけど、ちょっと疲れたから休もう、というような感じです。このタイプは、都会から田舎に移住して古屋をリフォームしたり、本を出版したりといったことをするので、すぐに見分けることができるでしょう。

たいていの場合、このタイプはアイデンティティが欠如しているというわけではなく、むしろ主観的に考えることができる人たちです。だからこそ、リフォームや出版といったことができるのであり、ミニマリストを牽引するような存在となっています。最初に仏教的ミニマリストが出現して(その当時はミニマリストという呼び方は定着していなかったはずです)、そこに便乗してきたのがこのタイプです。ある意味で、このタイプにとってミニマリストは商品であり、マーケティングの成果です。そのため、仏教的ミニマリストとは出自が異なります。

本人たちが千利休という言葉を使うことはありませんが、富める者が一時的な休息を得るという意味では、千利休に近い発想があり、ここでは千利休的ミニマリストと呼びたいと思います。

千利休的ミニマリストと仏教的ミニマリストの関係性とその構造

千利休的ミニマリストはいわば強者であり、圧倒的少数です。また、メディアにかかわれる以上、その影響力は計り知れません。繰り返しになりますが、この人たちは他のミニマリストを牽引する存在です。そして、彼らは前提として、それなりの豊かさや幸福を得ていたということを忘れてはなりません。

一方、仏教的ミニマリストは、アイデンティティが十分に形成できていないことが多く、主観的に考えることができません。そのため、ミニマリストという記号を獲得しても、そこからどうすればいいのかを自分で判断することができません。だからこそ、千利休的ミニマリストが発信する情報に従うことになります。結局のところ、仏教的ミニマリストは、消費を嫌いつつも、千利休的ミニマリストが提示する消費を前提とした「幸福」を夢見ているのです。

そして、千利休的ミニマリストと仏教的ミニマリストを含めたミニマリストの全体は宗教に似ています。千利休的ミニマリストというカリスマ、カリスマによる言行録(ブログなど)、「ミニマリスト」という記号による共同体(ミニマリスト一人ひとりによるブログのつながりの影響はかなり大きいです)、捨てるという実践(祈り)、そしてその祈りによって得られると信じられている「幸福」などは、宗教の定義は非常に難しいですが、宗教に近い要素ではあるでしょう。

ミニマリスト個人を取り上げて宗教的と言われることは少なくありませんが、実は「ミニマリスト」という現象全体が宗教的なのです。

主観的に考えられない人たち

ミニマリストという現象の根底にあるのは、アイデンティティの欠如、そして主観的に考えられないということです。主観的に考える力がないと、ミニマリストのように客観的なものに頼ろうとします。これは、ミニマリストに限ったことではなく、あらゆるところで起きています。

例えば、偏差値の高い大学が素晴らしい、東証一部上場企業に入れば安泰、星がたくさん付いているからこのお店はおいしい、といったものです。当然ながらそんなもので判断できるわけがありません。

客観的なものに頼れば傷つくことはありません。なぜなら、それは自分とは関係がないからです。しかし、それでは、ずっと他人の人生を生きることになります。本当の意味で「幸福」というのを考えるのであれば、自分はどうしたいのかをしっかりと考える必要があるでしょう。