あなたも立派な宗教者かも?


前回の記事「科学と宗教の関係をどう考えるか - nancolu」で、宗教は経典ではない、むしろ経典はそれほど重要ではない、と書きました。これは言い換えれば、経典を読んでいなくても宗教生活を送ることは可能だということです。もっと言えば、「自分は宗教を信じていない」と思い込みながら宗教生活を送ることができるということでもあります。このことについて少し考えてみましょう。

歴史的に大部分のクリスチャンは聖書を読んでいなかった

現代では簡単に聖書を入手することができます。書店に行けば3000円で聖書を購入可能です。アマゾンだと中古の聖書が1000くらいで見つかるでしょう。また、道をあるいていると、たまに聖書(この場合は新約のみ)が無料で配布されていることもあります。おそらく、学校の校門前やその周辺で聖書を受け取ったことがある人もいるのではないでしょうか。日本では実感することが難しいかもしれませんが、聖書は世界中で読まれており、最も売れている本は聖書であるとも言われています。

こういうわけで聖書は極めて簡単に手に入るものであり、あるのが当たり前と思ってしまいます。しかし、聖書が一般に広く読まれるようになったのはせいぜい200年くらい前からの話であり、イエスの誕生から1800年間はほとんど流通していませんでした。聖書の流通は印刷技術の発達と大きく関係しています。現代の印刷技術は大変に優れており、それが当たり前となっているので想像できないかもしれませんが、印刷ができるというのはすごいことなのです。

さらに言うならば、聖書が自国の言葉で読めるようになったのも最近のことです。ドイツ語翻訳に関しては500年前の宗教改革でルターが完成させましたが、それでもそれ以前は別の言語でした。聖書は、旧約聖書(ヘブライ語聖書)はヘブライ語で書かれており、新約聖書はギリシア語(コイネーギリシア語)で書かれています。また西洋では伝統的にラテン語が使用されていました。これらの言語を使用できるのはごく一部のエリートだけです。そもそも自国の言語を読めるだけでもすごいのに、他の言語を読めるのは本当に限られていました。

つまり、聖書は、広く一般に流通しだしたのはごく最近のことであり、それ以前は言語が難しすぎてごく一部の人しか読めなかったのです。それでは普通の人たちはどのように聖書に触れていたのでしょうか。色々なツールはあるのですが、代表的なものにステンドグラスがあります。ステンドグラスは聖書の代表箇所を絵にしたもので、文字を読めない人は絵というイメージを頼りに聖書を理解しようとしたのでした。

文字の読めない人は聖書も読めません。しかし、ステンドグラスを頼りにしていた人でもクリスチャンと呼ばれていたのです。宗教生活を送るのに経典それ自体はなくてもよいことがここからわかるでしょう。宗教において重要なことは、経典それ自体ではなく、それが伝えようとしている内容だからです。内容が理解できるのであれば経典に頼る必要はありません。ここでは聖書を例に出しましたが、他の宗教でも同じことです。

日本人は無宗教?

日本人は無宗教と言われることがあります。しかし、初詣に墓参り、葬式、祭りなど、宗教的な行事や儀式に積極的に参加しています。日本の宗教事情については別の記事(宗教は信じていない?なぜ日本人は無宗教なのか - nancolu)に書いたのでここでは繰り返しません。とにかくここで強調したいのは、日本人の大部分は、無宗教であると主張しながらも、宗教的な行動をしているのは紛れもない事実だということです。そして行動と思想は密接に関係します。

おそらく「これは文化であって宗教ではない」といった反論がなされるだろうと思われます。しかし、宗教学的には宗教と言わざるを得ません。また法的にも怪しいところがあって、たとえば、町内会で集めたお金を勝手に神社に収めたことに対して違憲判決が出ています(平成14年4月12日、佐賀地裁)。一般的には文化と考えられている氏神が、司法では宗教と見なされたわけです。

あなたは宗教者だ、と言われれば否定したくなる人は多いでしょう。しかし、客観的には宗教と言わざるを得ないものです。それでも否定するのであれば、それは端的に言って、宗教が何であるのかを知らないと考えるべきでしょう。たとえば、赤ちゃんがおもちゃを口に入れようとしているとします。当然、その親は「そんなもの食べちゃダメでしょ!」と叱ることでしょう。しかし、おそらく赤ちゃんとしては「食べる」つもりはなかったと思われます。「食べる」という概念を理解してないからです。しかし、そうであっても親からすれば、それは明らかに「食べる」という行為でしかありません。宗教もそういう類のものであると思われます。日本では宗教教育は行われないため、何かしら特別な環境にいなければ、宗教を知らずに済むことは十分にあり得るからです。

まとめ

宗教がダメだと言っているのではありません。むしろ宗教は人間にとって極めて重要なものです。しかし自身の宗教心に無自覚であるとさまざまな問題を引き起こす可能性があります。新しい「令和」という時代において、宗教心の自覚は極めて重要なものとなるでしょう。