nancolu

kore ha kojin-burogu de aru

神なんか存在しない


神の存在証明

神は存在するのか?この問いに多くの哲学者や神学者が取り組んできました。そして、実際に神の存在証明は数多くなされることになるのですが、これは大きく3つに分類することが可能です。論点を先取りしておくと、神の存在証明はすべて失敗してしまっているのですが、とりあえず3つを確認してみましょう。ちなみに、ここでいう「神」は一神教の神を想定しています。

目的論的証明

自然界の秩序から神の存在を証明しようとするものを目的論的証明といいます。たとえば、夜空を見てみてください。いくつもの天体が規則正しく動いています。それぞれの星には人間のような認識能力はありません。にもかかわらず、何らかの目的を果たすかのように動いているのです。そこには知性体がいるのではないか?

自然の秩序はよく時計に例えられます。時計は小さなゼンマイなどの複数の部品の組み合わせによって成り立っています。一つひとつが組み合わさって、時間を示すという1つの目的を果たしているのです。このような時計が道に落ちているとしましょう。そのとき普通の人であれば「だれかが落としたんだな」と思うはずです。なぜなら、時計のような精密なものが自然に出現するなんてことはありえないからです。同様に、自然界の秩序を見れば「これは誰かが作ったんじゃないか?」となるわけですね。

しかし、本当にそうでしょうか。目的論的証明では1つの目的のために自然が秩序だっていると考えていますが、ではなぜ災害が起きるのでしょうか。災害のある自然に、果たして秩序があると言えるのか。「悪」の存在の考えるならば、秩序というのはなかなか考えにくいことです。また、仮に設計者がいると仮定しても、その設計者の設計者を想定することもできます。

宇宙論的証明

この宇宙にはさまざまな現象が起きています。「私」が存在していることもまた1つの現象ですね。そして、この現象の背景には、原因となる何らかの現象があるはずです。たとえば、「私」が存在するのはお父さんとお母さんがいるからです。このように、あらゆる現象には別の現象を必要とするのですが、これをずっとさかのぼると第一の原因となる現象があるに違いないと言えます。この第一原因こそが神であるというもの。

さて、これにも批判をすることができます。なぜ無限にさかのぼることができないのでしょうか。第一原因がないと困る、といった要請のようにも思えます。仮に第一原因があるとしても、それが神であると言える根拠は何なのか。

存在論的証明

とあるすごい神学者(気になる方はアンセルムスで調べてください)は神を「それよりも偉大なものが何も考えられえない何か」と定義し、議論を始めます。この「それよりも偉大なものが何も考えられえない何か」を頭の中だけに存在すると仮定するならば、これが一番偉大だということになります。しかし、実在するそれを仮定することはもちろん可能です。なので神は存在します。

この議論は専門知識がないとちょっとわかりにくいので、100万円で考えてみましょう。頭の中にイメージとしてある100万円と、実際に存在する100万円のどちらが偉大なのかというと、実在する100万円です。そして言うまでもなく、実在する100万円は実在します。なので存在します。

この議論を翻訳すると、神の定義の中に「神は存在する」が含まれているので、定義上存在するのだから存在するよね、と言っているに過ぎません。つまり、定義から存在を導き出しているのです。当然ながら、証明になっていません。

(ちなみにカントはアンセルムスに対して次のように指摘しています。「『ある』は明らかに実在的述語ではない。すなわち、物の概念につけ加わることができる何かあるものの概念ではない」)

神が存在しないという証明

以上のように神の存在証明はすべて失敗しています。つまり、神が存在するという学問的な根拠はありません。しかし、これは、神は存在しないということの証明にはなっていません。そこで、神が存在しないと主張するためには、また別にそのことを証明する必要があります。次にこれを確認しましょう。これに関しては、神の存在証明のような類型はないので、とりあえず有名な人物を紹介しておきます。

まずはフォイエルバッハです。彼は、神は人間の心による投影に過ぎないと主張しました。つまり、神が人間をつくったのではなく、人間が神をつくったのだと言っています。現代人の大部分は彼の主張をすんなりと受け入れることができるでしょう。

次にマルクスです。彼も基本的にはフォイエルバッハの主張を受け継いでいます。そのうえで、社会の観点から宗教を批判しました。有名な言葉である「宗教はアヘンである」とは、本来社会的な救済が必要である状態に陥っても(たとえば貧困など)、宗教を信じていればその状態を善いものとしてしまい(たとえば「貧しい人ほど幸いなのだ」みたいな)、そこから改善されないからよくないということです。

そしてフロイトもあげておきましょう。彼は精神分析学の立場から、神は人間の幼児期に体験するものの投影であると主張しています。

このように啓蒙主義(宗教ではなく理性を重んじる立場)からすれば、神は人間の心の投影として理解される傾向にあります。繰り返しになりますが、現代人の大部分が持っているであろう感覚と同じです。

しかし、このような考え方にもやはり批判を加えることができます。まず、彼らが批判した宗教は本当に宗教なのかという点です。彼らが批判したのは、宗教というよりかは神学でしょう。そして、多くの主張は、神は人間の心が生み出したものということになりますが、これが成り立つのならば、同様に、神は人間の心が生み出したものであってほしいという願望の投影とも解釈できます。

まとめ

神の存在証明は今のところ成功していません。そして、神が存在しないことの証明もまた成功していません。よって、神は存在するか?という問いに誠実に答えるならば、「わからない」と言うべきでしょう。これ以上踏み込むことはできないのです。

なので、「神は存在する」と言えば信仰告白になりますが、同時に「神は存在しない」と言うこともまた信仰告白なのです。