神の国とは?


私はキリスト教の信仰を持っているのですが、神の国というのをどう理解すればいいのかなぁとよく考えることがあります。色々指摘できることはありますが、一応、今のところの私の理解を書いておこうと思います。

ちなみに、まだ洗礼を受けていませんので厳密にはクリスチャンではありませんし、神学の教育を受けているわけでもありません。あくまでも、私の理解するところの神の国についてです。

神と人との関係、人と人との関係

創世記のはじめの方に、人は神によって造られたと書かれています。これはいろいろな議論があると思いますが、当時、権威のある偉い人が上に立って、他の人たちがその下で貧しい生活をしていたものですから、すべての人が神によって造られていると主張することによって、権威を相対化したのだろうと思われます。神に造られるのは王のような偉い人だけと考えられていたのを、すべての人が神に造られたのだ、と言ったわけです。これは当時からすればかなり大胆な主張だったでしょう。というわけで、人はみんな神との関係を持っている、そしてみんな神との関係を持っているのだから、その点ですべての人は平等です。よって対等に他者と接することが可能となります。

また、十戒ですが、これはどの翻訳でも、基本的には「~しなさい」という命令形で訳されていることが多いのです。たぶん、十戒という性質からそのようにしているのでしょう。しかし、ヘブライ語の文法からして、「~しないだろう」というようなニュアンスになります。つまり、たとえば「殺してはならない」であれば、「人間関係を大切にするのだから人を殺すことはないだろう」というような意味合いです。

ここまでを簡単にまとめると、人は神によって造られており、その点でみな平等であって、だからこそ人間関係も対等であるから、お互いに殺したり盗んだりすることはないだろう、みたいな感じになります。

「あなた」

以上のように、神を前提とした場合の人間関係(もちろん神と人間の関係も)を考えると、「あなた」という人格を取り出すことが可能です。

「「あなた」を考えるのに、何も神を持ち出す必要はないだろ」という意見も出てきそうですが、実はそう簡単なものではありません。たとえば、通勤電車には人がたくさんいますが、これらの人は「あなた」ではありません。なぜなら「あなた」は「わたし」との関係、つまり二人称の関係だからです。面と向かっているわけではありませんから、「あなた」ではありません。ていうか、むしろ、「障害物」程度にしか思っていない人もいるのではないでしょうか。

また、一対一で接している場合でも「あなた」とは限りません。コンビニのレジに行けば丁寧に対応してくれますが、その人はおそらく「店員」でしょう。「あなた」として接しているわけではなく「店員」として接しているはずです。家に帰れば家族が迎えてくれますが、これも「父」や「母」「兄弟」「姉妹」といったものではないでしょうか。こういった属性ではなく、その人の人格として、「あなた」として接しているかどうかは非常に怪しいように思われます。

この「あなた」に関して書かれている有名な聖書箇所が詩編51・5-6です。新共同訳から引用しますと、「あなたに背いたことをわたしは知っています。 わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事と見られることをしました。 あなたの言われることは正しく あなたの裁きに誤りはありません。」これはダビデの詩で、ウリヤにひどいことをしたことを謝っているところです。この「あなたのみ」は「ウリヤには謝らない、神にのみ謝る」という意味ではありません。「あなた」として見るべき人を「あなた」として見なかった、と言っているのだと思われます。もしかすると、ダビデはウリヤをモノのように思ってしまっていたのかもしれません。

というわけで、「あなた」として人と接するには、神を背景にして、人と接する必要があるわけです。逆に言えば、神を想えば、人間関係は必然的に「あなた」との関係になります。もちろん、神を想定しなくても「あなた」との関係は生まれるはずですが、相当親密な関係に限られるでしょう。

ちなみに、啓示も「あなた」との関係から理解できると思います。啓示は「わたし」に降りかかってくるわけですが、「わたし」から見て神は「あなた」としての人格を開示しているのですから、これは神からの恵みであると理解できるでしょう。

また、イエスも神に対して「あなた」と呼び掛けています。イエスは神に対して非常に親しみを持って語り掛けていましたが、このような背景があるからなのだと思います。

「あなた」との関係を考えると、罪も理解しやすくなると思います。つまり、「あなた」との関係の断絶です。「あなた」としての神との関係の断絶、「あなた」としての他者との関係の断絶です。

十戒のように、「あなた」との関係があるのであれば殺しはしないだろうし、盗みもしないだろう、というわけです。

しかし、実際には、人間は戦争したり盗んでしまったりしているわけで、こういうことができるのは、他者を「あなた」としては見ていないからであり、「あなた」として見ていないということは、神を想っていないからであって、これは神との断絶と言えるので、罪なのです。

神の国

極端な律法主義がまかり通る中でイエスは現れました。イエスは神の国が近づいたことを主張します。では、この神の国とは一体何のことなのでしょうか。

有名ですが、「神の国」はギリシア語「バシレイア(βασιλεια)」の訳で、ニュアンスとしては「王の支配」となります。では、どのような形で支配されるのでしょうか。

イエスは、第一に神を愛すること、第二に隣人愛、この2つを特に重要と考えていました。ここまで書いてきたことを踏まえると、神への愛と隣人愛は密接に関係していることがわかります。神を想うからこそ、「あなた」として他者と接することができるのです。また、イエスは神の国は人との間にあると言いました。私はこれを人間関係のことだと解釈します。

つまり、神の国とは、あの世的な何かというわけではなく、まさにこの世において起こるものであり、神の国、言い換えれば支配とは、神を前提とした人間関係のことであると私は考えます。

このように考えると、福音書のイエスの言葉はそれほど多くはなく、断片的で思えるようなところもあるのですが、それなりにつながりを持って理解できるように思えます。律法を放棄しているのではなくむしろ完成させようとしていますし、イエスの周囲にいる人たちを母や兄弟として見るのも「あなた」という関係から言っているのでしょうし、神の国の範囲はユダヤ人だけでなく異邦人にも開かれるのでしょうし、癒しの奇蹟は万人が神との関係を持てるということを言っているのでしょうし、社会からダメとされている人たちに真っ先に向かったのもそういうことだと思います。

また、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という有名な言葉もありますが、これはまず自分を愛さないと隣人を愛せないというわけです。つまり、まずは神と自分との関係を考えていないと、自分が神から愛されているということを知っていないと、それと同じ形で他者を「あなた」として見ることができないということを言っているんだと思います。だからこそ、第一に神を愛することがあり(神との対話)、第二に隣人愛(他者との対話)が出てくるのでしょう。

神の愛としてのイエス

ただ、そうはいっても、パウロも苦悩しているように、私たちはやっぱり罪を犯してしまいます。つまり、他者を「あなた」とは見れないし、ゆえに神とも遠ざかってしまいます。

しかし、イエスはまさにそんな私たちのために十字架にかけられたのでしょう。それほどまでに神は寛大なのだと思います。誰もが神と共に生きることができる。放蕩息子のたとえは、そのことを端的に教えてくれているように思われます。

これは罪を抱えていてもいい、罪を無視してもいいというわけではありません。そうではなく、罪を抱えていてもなお神は私たちを見てくれているという意味です。罪をなくそうとする努力は必要です。でも、なかなか成し遂げられない。その中での神の愛。これが神の恵みであり、ボンヘッファーが言う高価な恵みなのでしょう。