科学と宗教は対立している?



科学と宗教は矛盾するものであり対立する、と一般的には考えられています。確かに、科学と宗教が対立することはあるのですが、一方で対立しつつも実際には別の原因が存在していたり、あるいは科学と宗教が密接に結びついていることもあります。

「科学」と「宗教」は何を意味するのか

「科学と宗教は対立する」とはよく言われますが、この場合の「科学」と「宗教」が意味するものをしっかりと考えなければなりません。

「科学」と一言で言っても、量子力学や生物学、宇宙論などさまざまなものがありますし、それぞれの分野によって方法論などは当然異なります。また、「宗教」にもキリスト教やイスラーム、仏教などがあり、さらにそれぞれの宗教には多様な宗派があります。キリスト教だけでも、カトリックやプロテスタント、正教会、聖公会などがありますし、それらをもっと細分化することも可能です。

このように、「科学」と「宗教」はそれぞれ膨大な多様性を持っています。そのため、「科学と宗教」という単純化された形で語ってしまうと表面的な関係性しか捉えることができません。いや、何も語っていないと言っても過言ではないしょう。

そのため、語るのであれば、例えば「キリスト教と量子力学」(これでも漠然としていますが)というような感じで、対象をより具体的にする必要があります。

対立の原因が他にある事例―地動説と天動説―

いわゆる「科学と宗教の対立」として最初に問題となったのは、地動説と天動説の論争でしょう、ガリレオに関するあの有名な論争です。ガリレオは天体ではなく地球が動いていると主張し、一方ローマ・カトリック教会は聖書の創世記を根拠に天体が動いていると主張しました。ぱっと見、科学と宗教が対立しているように思えます。しかし、その背後には別の原因がありました。

日本ではキリスト教に触れる機会が少ないため無理もないことではあるのですが、クリスチャンは聖書を文字通り理解している、と理解している人が少なくありません。しかし、多くのクリスチャンは、聖書には矛盾があるのであり、文字通り読むべきところとそうでないところがあると理解しています(聖書に矛盾はないと考える人も確かにいらっしゃいますが)。そして、そうでないところ、つまり解釈が必要な箇所があるという理解は、キリスト教が誕生して間もない頃から既にありました。つまり、地動説と天動説の論争が起きたときには、既に聖書を解釈するということが行われていたわけです。

問題は、聖書を解釈することそれ自体ではなく、どこを解釈するかにありました。つまり、ガリレオの新規性(それ以前からこの論争はあったのですが)は、聖書を解釈することではなく、聖書を解釈する箇所にあったのです。当時、創世記の冒頭は文字通り読むのが当たり前とされていました。この箇所を解釈するということに新しさがあったわけです。

さて、論争が起きていた当時、その背景でもう一つの大きな動きがありました。それがプロテスタントです。ルターによって起きた宗教改革で、ローマ・カトリック教会に対抗していたプロテスタントが徐々に大きくなっていました。プロテスタントはローマ・カトリック教会に対抗しているのですから、伝統的な聖書理解とは異なる、新しいことを主張します。この時代背景において、ローマ・カトリック教会が新しいことを認めることは、その内容が何であれ、プロテスタントを受容することとして、人々は認識するようになっていました。

地動説は、言うまでもなく、新しいものです。この新しいものをローマ・カトリック教会が受容することは何を意味するか。つまり、この論争の背景には、ローマ・カトリック教会とプロテスタントの勢力争いという政治的問題が絡んでいると考えることができます。

ちなみに、ガリレオの論争になる以前から、天動説には問題があるということは指摘されていました。地動説はそれなりに受け入れられてもいたのです。

科学と宗教が結びついている事例

宇宙論でよく語られる人間原理は基本的にキリスト教と矛盾しません。そのため、人間原理とキリスト教が結びついて語られることはよくあります。しかし、この2つの関係を説明しても、日本人にはちょっとわかりにくいところがあるので、あえて日本の例を挙げてみます。

これは、アニメやマンガ、ゲームなどのサブカルに非常に多くみられます。さまざまな表現がなされるのですが、よくあるのは、死者がAIとして復活するというものです。重要な登場人物が一度は死ぬが、実はその人の記憶がサーバーに保存されており、AIとして復活させられ、再び対話が行われるという感じです。確かに、科学技術を使ってはいますが、やっていることは極めて宗教的です。ほかにも、パソコンなどのIT機器を利用して、現実世界と電脳世界という別の次元を行き来するというもの(例えば『サマーウォーズ』など)もあります。

このように、科学と宗教が対立するどころか、境界線が極めてあいまいになっているものが多々あるのです(おそらく、これを宗教的だと認識できない人は少なくないでしょう。しかし、日本における「宗教」概念を考えるならば当然でもあります)。

安易な二元論はよくない

冒頭にも書いたように、いわゆる「科学」といわゆる「宗教」が対立することはあります。しかし、ここまで書いてきたように、対立が表面的なものに過ぎない場合や、そもそも対立すらしておらず密接に結びついていることもあります。

このような現実を無視して、単に「科学と宗教」という枠組みで考えてしまうと、対話をしても大した成果を出せないどころか、むしろ関係性を悪化させてしまう可能性も否定できません。

なかなか簡単にはできないことではあるのですが、立場の複雑性・多様性を理解しようと努めること、現象を冷静に分析することが重要です。