自由なゲームってなに?


今まであまりなかったと思うのですが、最近、「自由なゲーム」をPRするCMが出てきています。また、YouTubeなどの実況動画でも「自由なゲーム」という言葉が使われることがたまにあります。では、この言葉は一体なにを意味しているのでしょうか。

自由と自由度

ゲームにおける「自由」とよく似た言葉として「自由度」があります。この2つの言葉を比較しながら考えてみます。

ゲームにおける自由度の高さとは何か―モンハンを例に― - nancoluで書いたこととほとんど同じことになりますが、2つの言葉の違いは目的の有無です。目的のないものが自由で、目的のあるものが自由度です。

ここでは、比較的有名な遊び、ケイドロを例にしてみます。ケイドロは地域によってルールが異なっていることが多いのですが、基本的には、警察と泥棒に分かれ、警察組が泥棒組を全員捕まえれば警察側の勝利、泥棒が残っていれば泥棒側の勝利です。細かいルールはここでは関係ないので省きましょう。

ケイドロは1人の警察が1人の泥棒を追っかけてもいいのですが、複数の警察が1人の泥棒を追い詰めていくこともできます。また、警察がトランシーバーを持てば、離れたところからチームワークをとって泥棒を追い詰めることもできるでしょう。泥棒もトランシーバーを持っていいのであれば、警察のやり取りを盗み聞きし、それに基づいて逃げ道を考えるということもできます。さらに、自宅の周辺や学校の敷地内というように場所を制限せず、街全体を使ってもよいとすれば戦略や戦術にも幅が生まれるはずです。

以上のように、警察が泥棒を捕まえる、あるいは泥棒が警察から逃げるという目的を実行するにあたり、その手段が多様であることを自由度が高いと言います。逆に、警察は1人で1人の泥棒しか追えない、トランシーバーなどの道具はなし、範囲は自宅の敷地内のみ、となってくると、手段が少なくなるため、自由度は低いと言えます。自由度は、目的に対する選択肢の多様性の度合いなのです。

さて、次に自由についてです。ケイドロにおいて自由度ではなく自由を追求すると、破たんします。泥棒が泥棒を追っかけたり、警察が泥棒を追っかけることを放棄して寝たり、といったことも行えるからです。自由には目的がないので何でもできるのです。言い換えれば、ルールが機能しないので、混沌としたことになります。

ゲームとは?

ここで、そもそもゲームとは何かについて考えてみます。一般的にゲームというと、ゲーム機やパソコンで再生するデジタルゲームを意味することが多いのですが、実はこれに限りません。たとえば、サッカーや野球などが終了するさいに「ゲームセット」と言うことがあるように、サッカーや野球もゲームなのです。また、ボードゲームやカードゲームなどの言葉もあるのであり、ゲームは極めて多様であることがわかります。

とりあえず、デジタルゲーム以外でゲームを考えましょう。多様なゲームに共通するものは何でしょうか?対戦相手が存在すること、勝ち負けが明確であること、ルールが存在すること、などがあげられるでしょう。これらの要素を持ったものを一言で言ってしまえば、試合です。ちなみに、ゲームを辞書で調べると、だいたいは以下のような説明になっているでしょう。

1 遊びごと。遊戯。「ゲームコーナー」
2 競技。試合。勝負。「白熱したゲーム」
3 テニスで、セットを構成する1試合。「先に二ゲームとったほうが勝ち」
4 「ゲームセット」の略。

(引用:game(ゲーム)の意味 - goo国語辞書

ゲームにはいろいろな意味があるのですが、とりあえず試合と理解すると非常にわかりすくなると思われます。

さて、ゲームは試合であるのですから勝ち負けが明確でなければなりません。勝ち負けが明確でなければ、どうすれば勝ちあるいは負けであるのかがわからず、困ってしまいます。そのため、試合には必ず目的が必要です。たとえば、サッカーであれば相手のゴールにボールを入れる、野球であればバットでボールを打ってベースを踏む、ケイドロであれば警察が泥棒を捕まえる、などのようにです。

自由なゲームとは?

試合つまりゲームには目的が必要です。そして、自由と自由度の対比から確認したように、自由には目的がありません。ここまで言えばもう明らかになったようなものでしょう。自由なゲームはあり得ないのです。

ではなぜ「自由なゲーム」という言葉が生まれてくるのでしょうか。考えられることとしては、消費者がゲームを誤解するようになったことです。ゲームが試合であるならば、ゲーム機で再生するものの大部分がゲームでないことがわかります。たとえば、スーパーマリオであれば、1面にクリボーが出現しますけども、クリボーはプログラマーの指示に従って動いているだけであって、マリオを倒そうとしているわけではありません。つまり試合になっていないのであり、ゲームでないのです。であるにもかかわらず、ゲームと呼ばれるのは、ソフトを再生する機械の名称が「ゲーム機」だからです。ゲーム機で再生するものはすべてゲームとして認識されるようになってしまった。これがゲームに対する誤解です。

そして、もう一つあります。それがリアルとバーチャルの混同です。ゲームの面白さは自由度の高さとそれなりの関係があります。そして、この面白さを享受するには自分で自由に視点を動かすことが欠かせません。考える余地があるからこそゲームは面白いのです(これは研究に通じるものがあります。研究者の中には将棋を好む人がいるのですが無関係ではありません)。しかし、頭を使うことに楽しみを見出せる人はそれほど多くありません。与えられた視点でしか物事を見れない人が少なくないのです。これは、偏差値の高い大学がよい、上場企業に就職すれば安泰、年収は高い方が幸福、といった客観的指標に頼りがちな人が多いことからも明らかです。彼らにとって、このような固定的な視点、言い換えれば価値観そのものを現実として理解しているところがあります。自分で視点を動かすことができないのです。おそらく、彼らにとって、現実を超える自由はないということは理解できないでしょう。

まとめ

自由なゲームは存在しません。そして、このような言葉が生まれる背景には、現代的な「闇」が見え隠れしているように思われます。