自我形成には反抗が欠かせない


自我形成と反抗の関係について簡単に書いてみます。この記事はもしかすると若い人はあまい読まない方がいいかもしれません。ネットは誰でもアクセスできるのが利点ですが、それゆえに知識の段階を無視してしまうこともあるので難しいものですね。

自我形成

自我形成はどのように行われるのでしょうか。ものすごく大雑把に言ってしまうと、周囲への反抗を通じて自分と他者の境界線を引くことによってです。

幼稚園児や小学生くらいの年齢だと、まだ自分と他者を十分に区別することができません。小学生になっていたら少なくなるとは思いますが、幼稚園児だと、隣の子供が泣いていると自分もよくわからず泣いてしまうということがあるでしょう。こんな感じで区別がついていません。

周囲に多くの人がいて、その中に自分がいます。この自分というのを認識するためには、周囲の人たちと自分の間に境界線を引かなければなりません。この境界線を引くという作業が反抗なのです。反抗というのは、周囲の主要な権威や価値観に否をつきつけることで、典型的なのは、親に対してクソジジイとかクソババアと言ったり、行かなければならない学校に行こうとしなかったり、世間一般の価値観とかけ離れた悪魔的なものに興味を持ったり、そういう行動で現れます。いわゆる反抗期、もっと俗な言い方をすれば中二病といったものです。

そして、反抗をしている状態ではまだ自我形成ができたとは言えません。というのは、反抗の前提には既存の価値観や権威といったものがあるのであり、つまり反抗状態の意思決定は既存のそれに依存しているからです。自我形成ができたさいには、既存のそれとは関係なく意思決定が行えるようになります。

反抗できない社会

以上のように、自我形成には反抗が欠かせません。しかし、社会の中に、反抗できない、反抗させないような風潮が生まれることになりました。主に2つの原因があるように思われます。

まずは子供が力を持てるようになったことです。従来では、子供の反抗はたかが知れていました。たとえば、隣近所の柿を盗んで食べたり、親が育ててた花や盆栽をたたき割ったり、などです。しかし、平成が始まってすぐに青少年がいろいろな事件を起こしたりしましたが、このように、子供が反抗すると何をしでかすかわからない、止めようがない、取り返しのつかないことになってしまう、そういう事態になっています。子供のやることを見逃すことができなくなったのです。もちろん、従来の反抗の内容というのも推奨されるものではなく、やってはいけないことなのですが、しかし「バカモン!」と一喝すれば「まあ、子供だから」と言えたものでした。今ではそれでは済まないことになっているわけです。

次にネットの発達です。これには2つの側面があります。まず、ネットに誰でもアクセスできるので、自分と同じ考え方をしている人を簡単に見つけることができます。つまり、子供としては反抗をしようとしているのだけど、ネットで検索すると同じ意見を持つ人を見つけられるので、「なんだ、このままでいいのか」と思えてしまい、反抗に至りません。次に、大人たちが、ネットで、不特定多数の子供に対して反抗しているのはみっともないというようなことを言うようになったことです。真に受けてしまった子供たちは反抗をダサいものと認識してしまい、反抗に至りません。

そして、このような反抗を許さない風潮の中で、おそらく本人としては善意のつもりなのでしょうけども、厄介な考え方も出てきます。それが「反抗は素晴らしい、若い内に反抗しなさい」というものです。反抗肯定に反抗するのは容易ではありません。結果的に反抗できなくなります。

ここ最近(といっても十数年のことですが)、若者が尾崎豊を聞くと「何で学校でふざけたことをするのかわからない。家でやればバレないし、怒られないのに」と思うそうです。これはなかなか象徴的なことではないでしょうか。反抗することに疑問を抱くような状態になっているのです。

家庭でも親子の関係は変化していて、反抗が起こらないので友達関係のようになってきています。最近ではインスタなどで親子が仲良しであることをアピールするかのような投稿が出てもいるようです。これはなかなか皮肉なもので、友達的親子関係はギブアンドテイクの関係にならざるを得ず、結果的に、養ってもらう側である子供は親に気をつかうようになり、親子関係としては破綻してきます。

本来は、子供の側には、ケンカしようが何だろうが親は自分を守ってくれるはずだという安心感があるものです。この安心感があるからこそ存分に反抗できるのですが、今ではそうはなっていません(もちろん昔にもダメな親はいましたが)。

反抗ができないと?

以前に記事にしたのですが、「「真面目」な人の特徴 - nancolu」で書いた「真面目」な人が生まれてきます。この「真面目」は極端な例ですが、自分で考えられない人にはなるでしょう。他人の目を気にして生きることになるので、漠然とした不安の中で生きて行くことになると思われます。

また、今では時代遅れかもしれませんが(ゆえに怖さもあるのですけど)、少し前にチョイ悪オヤジが流行しました。これは反抗が中年に起きた例です。なので、しかるべきときに、つまり子供のうちに反抗を経験しておかないと、こういうみっともない大人になるわけですね。もちろん、まったく反抗することなく生きるよりかはチョイ悪オヤジのほうがマシなのですけど。本当に冗談抜きでチョイ悪オヤジはマシです。

ここ最近の事例としては、仏教界での動きが興味深いです。瞑想ブームなどもあって、世代を問わず仏教が人気を呼びつつあるのですが、ここで動物化現象が見られるようになりました。仏教では無我を説きます。そして、無我であることを知るためには、前提として我を持っていなければなりません。しかし、仏教に興味を持つ人の中には、我にすら至っていない人がいて、言うならば未我といったところでしょう。仏教は我のある人に無我を説くのですが、未我の人にも同じように無我を説くがゆえに、当たり前のことを当たり前のように言う風潮が出てきています。たとえば、山を見て「緑色だ」と言うようなものです。想像力の欠如と言わざるを得ないでしょう(若者の人間離れが起きる理由とは? - nancolu)。

同じようなことが別のところでも指摘されていて、スピードワゴン小沢さんの「現代の若者は“当たり前過ぎることを書いている歌詞”に共感している」という発言が話題になりました。「『砂糖が甘い』みたいな歌詞を書いて、若者が『分かる』って言うのは、チャンチャラおかしいね」というのは全くその通りです。この記事の初めの方でも書きましたが、自分と他者の区別がついていないわけですね。

常に他人に振り回され、自分が現実だと信じるものだけを見つめ、気分的に生きる、そういう感じになっていきます。

まとめ

自我形成には反抗が欠かせないのですが、反抗できないがために、それなりの年齢になっても自分と他人の区別がつかない人が徐々に増えつつあります。主観と客観の区別がつかない、価値判断を下せない、記号的思考、画一化、こういった問題にも関わることで、なかなか根深いものがあるように思われます。