トルストイ(米川正夫訳)『イワン・イリッチの死』を読んだ感想



死のない世界

『イワン・イリッチの死』とそれほど関係ないかもしれませんが…。

最初のほうに「死んだのはおれではなくてあの男だ」とありますが、自分の死を意識しない(できない)のは昔からなのかもしれませんね。

私は、少なくとも現代の日本には、死がないと感じています。もちろん人は死にます。そうではなくて、社会全体に死を意識させない構造が出来上がっているように感じるのです。病人は病院に押し込め、死に近いと思われている老人は老人ホームに。養老孟子さんが『死の壁』でこの辺のことを指摘しておられたと思うのですが、まったくその通りだと思います。

たまに、「40歳、人生の折り返し地点」だとか「老後の暮らし方」みたいな言葉を聞くことがあります。ほかにも、若い人でも年金の心配をする人が最近では珍しくないようです。「年金もらえるか心配、この国だめだね」と言いますが、年金がもらえる年齢まで生きていることに疑いを抱かない程度にはこの国は恵まれているのでしょう。どうも人間は老衰で人生を終えるそうです。あまりこういう表現はよくないのかもしれませんけども、そういう言葉に出会うと私は「万人に等しく老後があるなんて思うなよ」と感じてしまいます。

テレビを見ていればイヤでも知ることになると思うのですが、災害があった、事故があった、などなど、老衰以外の死はいくらでも存在します。冒頭のそれと同じように、「死んだのは私ではなくテレビの向こう側の人間だ」、ということなのかもしれません。いや、そもそも「死」という概念すら持っていないのでは、と思ってしまいます。

ここには現実と虚構の関係性の乱れがあります。これについて書きだすと長くなるのでここでは書きませんが、この問題がいろいろなところに影響を与えているのは間違いないでしょう。

なぜ宗教を信仰するのか

本作では、死の問題に対して、最後に信仰が出てきます。しかし、信仰を持つことに抵抗がある人は少なくないでしょう。科学技術がこれだけ発展した時代ですから、宗教は役に立たない、そんなのを信じているのは脳みそが足りないやつだけだ、といった意見が出てくるのも無理はないのかもしれません。

宗教を信じることの理由には人それぞれあるはずですが、1つ指摘しておくと、現実を見ているから、というのがあるでしょう。無限に複雑である現実。そしてそこに確かに存在する私。現実に対してどうすることもできないという私の有限性。自分が有限であることを自覚しているからこそ無限への憧れを抱くのです。

しかし、従来では、生まれた瞬間から現実を直視しなけばならなかったのが、現代では、最初に現実があるのではなく、まず虚構に触れることになります。そのため、現実を見ることができない、自分を現実に位置付けることができない。もちろん、現実が見れないというのは、視覚がおかしいという意味ではありません。現実を見ている人と見れない人で視界が変わることはないでしょう。ただ、ものを見たとき、それに対してどう感じるかという点は大きく異なります。

現代において現実を見るのは極めて困難です。おそらく、現代において現実を見れるのは、知的エリートか都市的価値観に一切触れることがなかった田舎の人たちくらいのものでしょう。本作は平凡な人間にも宗教的真理があることを示していますが、実際のところ、平凡な人が信仰に至るのは難しいような気がします。

現代の癒し

現実を見れば必ず宗教を信仰するようになるわけではありません。現実を見て苦悩はするが、宗教は信じることはできない、という人も当然ながらいます。また、現実を見ていない人でも、現実を見ている人と感じ方は違うものの、苦悩をする人もいます。おそらく、こういう人も宗教を信じるのは難しいでしょう。

このような宗教が役割を果たしにくい現代において、では一体何が癒しとなるのでしょうか。私は芸術文化だと思うのです。たとえ立場や背景が違うにしても、同じ地上に生きる人間です。だから、おそらく共通する悩みはあると思います。

共感。共苦。良心。