ゲームと平和


ゲームと平和について、ざっくりと考えてみます。かなり無理やりな感じになっていますが、書けるところまで書いてみます。いつか綺麗にまとめてみたいです。

ゲームは戦い

ゲームの本質を考える」で書いたように、ゲームは試合です。そして、試合なのですから何かしら戦っていると考えることができます。実際、ゲームの起源は戦闘にあり、たとえば将棋やチェスは戦争のシミュレーションですし、レスリングや相撲といった格闘技はまさに戦闘でしょう。

しかし、ゲームはただの戦闘ではありません。遊びの要素を持ちます。遊びとは日常生活とは区別されたそれ自体で完結する活動です。なので勝ったからといって何か利益があるわけではなく、逆に負けたからといって何かをとられることもありません。だからこそ純粋に勝敗を楽しむことができるのです。戦闘は何かしらの利益を得るために行われます。たとえば戦争であれば戦いそれ自体が目的なのではなく、敵国の資源を奪うために行われます。資源を得られるのであれば、わざわざ武器を使って戦う必要はありません、現代では経済活動として行われているように、です。戦闘は生存に関わるものですが、ゲームはそうではありません。

ゲームはしばしば暴力的です。それはゲームの起源が戦闘にあるからです。しかし、ゲームはそれを遊びとして表現しています。これはゲームの特殊性でしょう。ゲームは前提として人間に暴力性が備わっていることを認めたうえで、それを遊びとして昇華しているのです。

ゲームと宗教

ゲームは参加プレイヤーが公平に戦えるようでなければなりません。それを可能にするものは神です。レスリングや相撲が神事としての要素を持つのは決して無関係ではありません。

ゲームを開始する前には普通、宣誓を行います。現代ではこれの意味がかなり薄れてしまっており、わけのわからないことになっていることが珍しくないのですが、宣誓は会場にいる人たちに対して行うのではなく、神々に対して行うものです。人間は欠陥のある存在であるため、必ず不正を行います。欠陥を持った人間が欠陥を持った人間をチェックするのは不可能であり、世界を支配する神々に委ねるしかありません。神々に向かって「正々堂々と戦います」と誓うことによって不正を抑制するのです。もし不正をしてしまえば神々から罰せられるゆえにこれが機能します。

このような空間で行われる試合は対戦相手への尊厳につながります。

まとめ

ゲームは人間に備わる暴力性を遊びとして表現したものです。また、現代では意味が薄れているとはいえ、公平を志向した空間における活動は相手の尊厳を尊重するものとなります。