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現実と虚構、パトリの消失



このブログでは、現実と虚構のことを書くことが多く、いい加減これについて書くのをやめようと思うのですが、やっぱりどうも気になってしまうようです。

現実と虚構

ネット掲示板やチャットをたまに使うことがあるのですが、「ネットのルールを守れ」というようなことを言う人がいます。この言葉の意味は、どうも、ネットは現実とは違うのだ、だからネットのルールを守れ、ということみたいです。ネットのルールとはいったい何なのでしょうか?

掲示板やチャットに関して言うならば、直接人と会って会話するのではなく、パソコンやスマホの画面上で文字だけでやり取りをするというだけの話です。直接会ってやり取りするか、文字でやり取りするかの違いにすぎません。ネットでは相手を傷つけることもある、なんて言われることが多いのですが、それはネットでは文字情報だけでやり取りをするために、齟齬が生じやすいというだけです。そして、その齟齬をできるかぎりなくすために、普段よりも気を使いましょうということで、ネットのマナー、つまりネチケットが必要になります。

しかし、中には、現実とネットはそれぞれ完全に独立した世界であると思っている人がいるようです。だから、ネットでは現実でやっていることは通用せず、ネットにはネットの世界法則が存在しているのであり、ネットを使う以上はネットにおけるルールを守らなければならない、ということになります。彼らにとっては、マナーではなくルールなのです。

明らかに変です。ここには、ネット、つまり虚構は、現実から独立した存在だという認識があります。本来、虚構は現実の中にあるのであり、現実から独立している虚構などありえません。しかし、彼らはそう思っているわけです。このような誤った認識が、上のような誤解につながったり、Jアラートが鳴っても笑っていられたり、スーパーに肉が並んでいることを当たり前だと思い込んだりといったことを引き起こします。端的に言えば、彼らは現実を認識することができていません。

なぜ現実を認識できないのか

私は、現実を認識できなくなるのは、教育とメディアの発達に原因があると今まで思っていました。おそらく、この2つの影響もあると思うのですが、もっと根本的な原因があるような気がします。

今日、こころの時代の再放送を見ていたのですが、アイヌ長老の浦川治造さんが取り上げられていました。この中で同化政策がちょこっと出てくるんですけども、どうもこれが関係しているのではないかという気がします。つまり、パトリの消失です。パトリは郷土のことです。郷土では理解されにくいかもしれませんが、地元と言えばわかりやすいでしょうか。

生まれたら、「○○村の××です」ではなく「日本の××です」という形でアイデンティティの形成が行われることになります。では日本とは何でしょうか。あるいは、日本はどこでしょうか。確かに、日本は地図に書いてある日本列島のことを指すわけですが、ある意味では極めて抽象的です。言い換えれば、具体的なものとして日本をイメージすることが難しいということです。

従来では、郷土があり、郷土に住む人々の一人ひとりの顔が具体的な形で存在し、郷土の風景や祭りなどを通して、現実認識ができたはずです。しかし、日本として考えた場合、「日本人」というのはあくまでも想像上のものであり、日本の風景や祭りといったものも、ごく一部しか認識できず、あるいは文章や写真などの形で抽象的に認識するしかありません。

これは私の感覚的なものに過ぎないのですが、田舎と都会では、田舎に住んでいる人の方が現実を認識しているように感じます。もちろん、田舎には自然が多いので、それだけ現実を認識しやすいとも言えるのですが、同時に、田舎の自然というのは人工物なので(田んぼは典型的ですね)、ある意味では虚構です。そういう意味では田舎と都会にそれほど差はなくて、違いとしては、田舎では地元に住んでいる、郷土があるという具体的な認識を持ちやすいのではないかと思います。

当然ながら、田舎で生活していても、学校では日本としての教育が行われますし、場所に関係なくネットを通じて都会的な価値観を得ることはできるので、田舎だからといって現実を認識できるとは限らないのですが、しかし、根本的には郷土の有無がかかわっている気がします。

郷土への回帰?

なんとなく、ジブリの『おもひでぽろぽろ』を思い出しました。これを見たのは小さいときなので、あまり覚えていないんですけども、確か主人公は自分に田舎がないことを悩んでいたように思います。そして、休暇中に田舎での生活を体験する、といったものだったと思うのですが。

それに、今では「まだ東京で消耗してるの?」に象徴されるように(?)、田舎に移り住むことがちょっとしたブームになってもいるようです。

たぶん、これらは、東京でのハードな生活に疲れたというよりも、東京では精神的な満足感が得られないから、そうするのでしょう。

また、地方分権ということで、国も若干それに便乗しているような気もしますが、地元をもっと意識しようみたいなキャンペーンもしていると思います。

私が思うに、それらは失敗するはずです。というのも、根本的に郷土という意識がないからです。仮に田舎に移り住んだとしても、都会的価値観から田舎を見ることになるため、田舎に郷土を見出すことはないはずです。仮に田舎に行って満足な生活を送れた場合は、それはもともと郷土的価値観を有していた場合でしょう。

ネトウヨ

なんとなくですけども、ネトウヨが出現したのも理解できるような気がします。彼らにとって回帰できるのは「日本」だけだったのでしょう。自分を位置づける場の最小単位が日本だったのだろうと思います。具体的な形で認識できる郷土がないからこそ、日本、それもネットを通じてのみしか関わることができないのではないでしょうか。

パトリがないと個人主義的になる

自分を位置づけるところがないのですから、必然的に個人主義的になります。あるいは、ネトウヨのように、抽象的な形であっても、無理やりにでも何かに位置づけることになるでしょう。

であれば、社会人になれない(つまり社会人としての意識が持てない)ことや、17時に帰宅するのも何となく理解できそうです。これらが「ゆとり世代」と呼ばれる世代の特徴として語られるのも無関係ではないでしょう。

郷土がなくなったのは、同化政策もあった明治期です。アイヌのような民俗的なものが迷信とされ、国家神道を浸透させることで、地域から日本へ移行しました。にもかかわらず、大戦中に結束力があったのは(日本をパトリ的なものとして認識できたのは)、「日本」という抽象的な概念を「天皇」という具体的なイメージが補完したからだと思います。

戦後でもそれなりの結束力があったのは会社が機能したからかもしれませんね。日本よりも会社のほうが具体性があり、その中で自分を位置づけることができたのでしょう。ただ、会社(またそれ以降)の場合は、パトリというよりもプラットフォームであるように思います。プラットフォームには明確な場がなく、さらにそこでの人間関係は極めて流動的です。そのため、自己を位置づけることができません。

あまり関係ないかもしれませんが、ここ最近の孤独ブームが気になります。例えば『極上の孤独』が書店で山積みになっていますが、本に書かれている「孤独」と読者が考える「孤独」には乖離があると思います。自己をどこにも位置づけられず悩んでいることに対して、「孤独でもいい」という肯定はまた別の問題を引き起こす気がします。おそらく、著者がいうところの「孤独」はそういう意味ではないはずです。

現実と虚構の関係性を再構築するためには?

ここまで来たら、郷土への回帰を通して、現実と虚構の関係性を再構築するのは無理だろうと思います。従来では、この部分を宗教や文化、芸術というのが担っていました。今回のこころの時代でも、自然と神の関係を伺うことができたはずです。しかし、近代化に伴って、それが難しくなってきたというわけですね。

私が思うに、この状態から現実と虚構の関係性を再構築する方法としては、回帰するのではなく、徹底的に押し進めることです。科学があまりにも発達した社会は、おそらく、現実と虚構が一緒くたになると思います。というのも、過程がまったくわからないからです。つまり呪術みたいなものです。

デジタルネイチャーってクソみたいな発想だなって前の私は思っていたのですが、案外、落合陽一さんの言う「魔法」は、現実と虚構のバランスを適切にしてくれるかもしれません。