ゲームと平和


「ゲームと平和がどう関係するの?マジで言ってる??」みたいなことを言われてしまいそうなのですが、私の考えるところを簡単に書いておきたいと思います。

ゲームとは?

ここで言うゲームは、多くの人が想像するように、ゲーム機やパソコンなどのデジタル機器で再生するゲームのことであるのですが、しかし同時にズレもあると思われますので、まずはゲームとは何かということについて簡単にまとめます。このことは、本ブログのゲームカテゴリで毎回書いていることではあるのですが、大切なのでここでも書いておきます。また、本来的なゲームについて理解すると平和へのつながりも見えてくるはずです。

ゲームは多様

多くの人はゲームと聞くとゲーム機やパソコン、最近ではスマホでも遊べますけど、そういうデジタル機器で再生するものをだけイメージすると思います。しかし、野球やサッカーが終わった後に「ゲームセット」と言うように、野球やサッカーもゲームです。さらに、ボードゲームという言葉もありますが、ここには将棋やチェスが含まれます。つまり将棋やチェスもゲームなのです。他にもカードゲームなどがあり、これだけでもゲームが極めて多様であることがわかるでしょう。

ゲームに欠かせない要素

では、これほど多様なものがなぜゲームという言葉で表現することができるのか、言い換えれば、ゲームと呼ばれるものに共通するものは一体何かということが問題になってきます。

まず言えることは、勝ち負けが存在することです。たとえば、サッカーは相手のゴールにボールを多く入れれば勝ちですし、将棋であれば相手の王を取れは勝ちになります。

次に、勝ち負けに関連しますが、対戦相手の存在です。相手がいなければ勝負になりません。ちなみに、プレイヤーは将棋のように一対一になるとは限らず、サッカーのようにチームが戦うこともあれば、トランプのババ抜きのように複数人が同時に戦うこともあります。

最後にルールです。ルールが存在しなければ、たとえば将棋であれば負けそうになったときに盤をひっくり返すこともできてしまうわけですが、つまりルールがあるからこそ秩序の中で楽しむことができます。また、そもそも勝ち負けを定義できるのもルールのおかげでしょう。

他にも指摘することはできますが、とりあえずゲームに共通する要素として、勝ち負け、対戦相手、ルールの3つを指摘できるはずです。また、付け加えるならば、プレー時には必ずしも意識されているわけではないのですけども、「ゲーム」という言葉には「遊び」という意味が含まれることもここで指摘しておきます。

ゲームの本質

結論から言うと、ゲームの本質は、戦闘の文化的表現です。わかりやすい例として将棋があります。いろいろな解釈はできるのですが、将棋は戦争のシミュレーションです。駒を操作して、相手の一番偉い者をやっつける、その過程を楽しむのが将棋であるわけです。

また、レスリングやフェンシングなど、一般的にスポーツと呼ばれているものの中にあるゲームに関しても、これらの起源を突き詰めていくと戦闘に行きつきます。IOCのバッハ会長も「あらゆるバトルスポーツは人間の戦いに起源があります」(オリンピックとFPSのような暴力的なゲームは価値観が相いれないとIOC会長が発言 - GIGAZINE)と言っている通りです。

このような、あからさまな種目でなくても、サッカーや野球、また分野が大きく異なりますが、ボードゲームやカードゲームといった直接的に戦闘に関わらないものであっても、勝負をしているわけであり、要は戦っているわけです。ゲームは戦闘なのです。

ゲームの面白さも戦闘という要素と密接に関わっています。自分も相手も勝利を目指して戦うわけですが、究極的には相手がどのような手を使ってくるのかはわかりません。ここに不確定要素があります。ゲームは、この不確定要素を、戦略と戦術を用いて確実に近づけていく作業です。確実に近づけるためには、ルールや状況を手掛かりとして、相手の手を読んでいく必要があります。相手を読んだ上で、さらに自分が有利に展開できるように考えること、この考えるというのがゲームの面白さなのです。

戦闘は、この考えるという面白さを提供するものでした。私はここで戦闘を認めているわけではありません。しかし、歴史上、人類が戦闘に面白さを、部分的にではあれ感じていたのは疑いようのないことです。その意味で、人間には攻撃性というものがあるのでしょう。攻撃性は生きる上では欠かせないもので、自己防衛も攻撃性によるものですし、また「リーダーになるんだ」とか「1番になってやるんだ」といった目的意識も一種の攻撃性です。攻撃性というのは両義的で、生きる上で欠かせないものである一方、戦闘という形で暴走することもあるのです。

そして、ゲームは、この攻撃性が暴走したものである戦闘を遊びという形に昇華することに成功しました。戦闘では負けることが死や生活に直結するのですが、遊びでは負けても死につながることはありません。つまり、戦闘が持つ戦略と戦術を考えるという面白さを、ゲームでは安全に表現しているのです。なので、ゲームは、戦闘を文化的に表現したものということができます。

補足:ゲームと呼ばれているがゲームではないもの

少し脱線しますが、一般的に考えられているゲームの大部分はゲームではないということについて書いておきます。

たとえば、代表的な作品にスーパーマリオがあります。1面にクリボーが出現するあの作品です。さて、このクリボーをはじめとする敵キャラクターは、戦略と戦術を用いて主人公であるマリオを倒そうとしているでしょうか?当然、そんなことはありません。プログラマーが設計した通りに動いているだけです。つまり、スーパーマリオはゲームではありません。

このように考えると、大部分のゲームはゲームでないことがわかるでしょう。私がここで言いたいゲームはそういった類のものではないのです。

ちなみに、ゲームでないものがゲームと呼ばれるようになったのは、ソフトを再生する機械の名称が「ゲーム機」だからです。ゲーム機が普及したのはファミコンの影響が大きいと思われますが、当時は、ビデオデッキはビデオを再生するもの、CDプレイヤーはCDを再生するものというように、1つの機器が1つの役割を持っていました。その延長で、ゲーム機で再生するものはゲームという認識が生まれたのです。

ゲームと平和

話を戻しますと、ゲームは戦闘が持つ面白さを文化的に表現したものであるので、人間が持つ攻撃性というものを遊びという形に昇華できるわけです。オリンピックが平和の祭典と言われるのも、このような点が関わっているのではないでしょうか。ついでに言うならば、「理論武装」という言葉がありますが、これの起源もオリンピックと同様にギリシアで、攻撃ではなく理論を用いて目的を達成しようとするわけですけども、ここで「武装」という言葉が入っているのも同じような感覚でしょう。

また、ゲームに参加するにあたって、勝つことが目的なのですから、当然練習をしなければなりません。一般的にはゲームで練習をするという習慣はあまりないようですけども、練習は必要です。この勝利を目指して努力をするというのは美徳にも関わります。同時に相手への敬意というのも出てくるでしょう。さらに言えば、ゲームではルールを必ず守らなければなりません。正々堂々と戦うのです。こういった姿勢も美徳と関わるものです。

ちなみに、最近では完全に形骸化してしまっていますが、野球などのメジャーなスポーツにおいては、今でも宣誓が行われます。誤解が非常に多いのですが、宣誓は偉い役員たちや会場の人たちにするものではなく、神にするものです。人間のやることですから、いくらでも不正ができてしまいます。なので、それを防ぐために、参加者は神に誓って不正をしないことを誓うのです。もし不正をすれば神から罰せられるというわけですね。宣誓は一人ひとりが神に誓っていたら時間がないので、代表が1人やるわけですけども、この宣誓の本来の目的は今でも意識されていいでしょう。

何が言いたいかと言えば、ゲームはそれだけ真剣だということです。もちろんゲームは遊びですが、遊びだからと言って真剣にやらないわけではありません。是非とも子供のときにやった鬼ごっこなどを思い出してみてください。

ゲームの優位性

別にスポーツでも同じことはできるのではないか、という意見も当然あるはずです。そこで、ゲーム(いろいろな意味で使っているのでわかりにくいですが、以下デジタルゲームのことです)の優位性を考えてみます。

まずは参加しやすいことです。スポーツでは施設などを用意したり、道具を揃えたり、人を集めたりといったことが求められますが、ゲームではそういったことが傾向として容易に行えます。それに、タイトルにもよりますが、それほど練習をしていない場合でもそれなりに遊べるものです。さらに、基本的には体を動かさないため、お年寄りや障がいのある方でも参加できるでしょう。

あと、タイトルによりますが、ネットで簡単に世界中の人と遊べるのも大きいですね。

そして審判が必要ないのも利点です。すべての判定はコンピューターが行うので、不正が起きません。ネットではチートなどができてしまったりもするのですが、公式大会ではほぼ無理でしょう。

ゲームの課題

ぶっちゃけ、これは山積みです。なのでゲームが平和につながるかと言えば、正直言って怪しいでしょう。しかし、ゲームはまだまだ発展途上なので、これからに期待したいところです。

とりあえず、簡単にまとめると、まず暴力的な表現が多いことです。これについてはなぜデジタルゲームは暴力的になるのか - nancoluでも書いていますが、やはりゲームの特殊性を追求すると、そうならざるを得ないところがあります。IOC会長のバッハはeスポーツの正式種目化について「人を殺すようなゲームは、オリンピックの価値観にはそぐわない」(オリンピックとFPSのような暴力的なゲームは価値観が相いれないとIOC会長が発言 - GIGAZINE)と言っているのですけども、全くその通りです。

そして、暴力的な表現をやわらげることはできるのですが、そうなると傾向としてファンタジーになりがちです。ファンタジーになるとまた問題があって、典型的なのはポケモンでしょう。ポケモンには進化という概念がありますが、これは一神教にとってあまり良いものではないです。キリスト教圏ではかなり受け入れられてきていますが、イスラムでは厳しいところがあります。いろいろな文化圏に対応できる表現が求められるかもしれません。

それから、ゲームのルールが一企業に左右されてしまうことです。スポーツであれば国際的にルールを決めますが、ゲームはあくまでも営利企業が作っているものであり、ルールもその企業が決めます。そのため同じタイトルでもシリーズによって仕様が大きく異なっていることが珍しくなく、また、その仕様変更は売上が前提にあるので、非常に脆いです。

もう一つあげておくと保存の問題もあります。ゲームを作っている企業がサポートを終了すれば遊べなくなってしまいます。サポートが終わっても形としては残りますが、長期的に考えれば、ゲーム機が壊れてしまったらどうやって修理するのかとか、スポーツではあり得ないような問題が出てきますね。

まとめ

現状、ゲームと平和というのはかなり難しいものがあるのですが、それでもまったく期待できないわけではないという気がしています。平和を考えるにあたり、問題を複雑に考えてしまうことがあるように感じるのですが(実際に問題は非常に複雑なのですけども)、国とかそういう単位ではなく一人ひとりの人というのを考えれば、そんなに難しいことはいいからとりあえず一緒に遊ぼうぜ、みたいに思うところがあります。いがみ合ってるけど、まあ、ゲームしようや、今まで無関心だったけど一緒に遊んで興味もとうや、みたいな感じでしょうか(どこでもパッと複数人で楽しめるswitchってかなりスゴイと思うんですよね、そういう遊び方をしている人はかなり少数みたいですけど)。平和というよりも平和ボケに思えなくもないですが、でもいろいろなアプローチの仕方があってもいいと思いますし、その一つにゲームというのがあってもいいんじゃないかな、なんて思ったりしています。