よくあるゲーム批判とそれへの批判


ゲームはしばしば批判されます。この記事ではよくあるゲームへの批判に対する批判をしてみます。

ゲームは役に立たない

典型的な批判はこれでしょう。実は、これは批判になっていません。的外れと言わざるをないものです。

ゲームには必ず遊びの要素が含まれます。では、遊びとはなんでしょうか。ホイジンガの議論が参考になります。

遊びとは、あるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に従っている。その規則はいったん受け入れられた以上は絶対的拘束力をもっている。遊びの目的は行為そのもののなかにある。それは緊張と歓びの感情を伴い、またこれは「日常生活」とは、「別のもの」という意識に裏付けられている。

(引用:ホイジンガ(高橋英夫訳)『ホモ・ルーデンス』中公文庫、1973年)

遊びはそれ自体が目的として完結しなければなりません。つまりゲームであれば、ゲーム内で完結する必要があるのです。なので、「役に立つ」というのは「お金になる」程度の意味でしょうけども、お金を得るためにゲームをするとなれば、ゲームはお金を得るための手段となってしまい、遊びの範疇を超えてしまいます。

ゲームは定義として役に立たないもの(それが遊びです)なので、ゲームは役に立たないというのは批判になっていないのです。私としては、ここには別の問題があるように感じられます。端的に言って、そのような発言をする人は、余裕がないように見受けられるのです。例えるならばやせ細ったロウソクのようなものでしょう。ロウ(余裕)がないために、火をつけるとすぐに燃え尽きてしまう。燃え尽きればまだいいほうで、細いために折れてしまうかもしれません。

あらゆる行動はお金に結びつけられなければならない。お金に結びつかない行動は無駄であり、やるべきでない。これはある種の信仰ではないでしょうか。そして、その信仰を受け入れない者は排除されるべきと言っているのとそれほど変わらないように思えます。まるでカルトのようです。

そんな古いゲームしてるの?

これはそれほど多いわけではありませんが、しばしば遭遇するものです。たとえば、2002年に発売されたゲームボーイアドバンスのロックマンエグゼ3を、この令和の時代にやっていると「なんで今更そんなのやってんの?」なんて言われるわけですね。

この批判の背景にあるのは置換主義です。すなわち、新しいものは古いものよりも優れているといった考え方のことです。この考え方は科学的発想と密接に結びついています。たとえば、天動説は地動説に取って代わられました。地球が動いていることが明らかになった今、もはや地球が宇宙の中心であるとする天動説は役に立たないわけです。このように、科学はどんどん進歩するものであり、古い学説はどんどん退けられていきます。

この考え方、態度は、学問的に明らかでないことを明らかにしていく作業においては欠かせません。しかし価値判断と結びつくと極めてやっかいなものとなります。これもある種の信仰で、新しいものは優れているのだから古いものは退けられるべき、となっていることが少なくありません。

あまり関係ありませんが、YouTubeの比較的古い動画のコメント欄において、「まだこの動画見ている人、挙手」みたいなものがたまにあります。これは、世間としては新しいものが評価されているが、自分は古いものが好きだという葛藤から出てくるものです。まだ自我が十分に形成されていないために同意を求める形を取っているわけですが、私は彼らを応援したいですね、このフェーズを超えれば自分で価値判断を下せるようになるでしょう。

ゲームは暴力的だからよくない

まず、「ゲームは暴力的だ」という点に関してはおおむね間違ってはいないでしょう。シミュレーションゲーム(どうぶつの森のような)のようなものもありますが、たしかに暴力的な表現を用いる作品は決して少なくないです。なぜこのようなことになるのかというと、ゲームには目的があること、そしてそれを映像として表現しなければならないことが理由としてあげられるでしょう。簡単に目的が達成されれば面白くないので何かしらの困難を用意するわけですが、それを映像として表現する場合に、敵を倒していくものとして描くのがわかりやすいのです。

ゲームの本質を考える」でも書きましたが、ゲームは極めて多様で、ゲーム機などを使うデジタルゲームだけでなく、将棋やチェスなどもゲームです。そして将棋やチェスなども実は暴力的なのです。これらは、要は、戦争のシミュレーションだからです。ボードゲームにおいては位置情報さえあれば十分なので実際の戦闘シーンは抽象化されますが、やっていることはそれほど変わらないのではないでしょうか。

たしかに映像は具体的な印象を与えるものなので、デジタルゲームと将棋やチェスなどを一緒にするのは言い過ぎかもしれません。では、映画やドラマはどうでしょう。暴力的な表現は少なくありませんが、あれは大丈夫なのでしょうか。暴力的であることを理由にゲームを批判するのであれば、同様に暴力的な映画やドラマといったものも批判すべきです。しかし、実際にそこまで徹底している人は見かけません。

結局のところ、ゲームは悪であるという価値判断が先行し、それの理由付けとして暴力性を持ち出しているように思えます。このような態度は、「ゲームは役に立たない」と同様に、自身の信仰に合わないものを排除したいだけではないでしょうか。

また、「よくない」という点に関してですが、これはおそらく、ゲームは暴力的だからプレイヤーも模倣などによって暴力的になるからよくない、ということを言いたいのでしょう。これに関しては、長くなるのでここでは紹介しませんが、多くの研究から関係ないことが指摘されています。それでもなお、よくないと言い続けるのは「科学的」な態度ではないでしょう。