ゲームの「自由度」ってなに?


ゲームを語る際にしばしば問題となるのが「自由度」です。このわかりにくい言葉を、よく混同されがちな「自由」との関連で考えてみます。また、自由度と自由の混同の背景にあるものを指摘してみます。

自由度と自由

自由度と自由は非常によく似た言葉です。中には同じ意味として使用している人も少なくなく、混同されやすい言葉と言えるでしょう。

この違いですが、結論から言うと、目的の有無です。目的のあるものが自由度で、無いのが自由になります。

これはゲームの本質を考えるならばすぐに理解できるでしょう。以前記事にまとめたので詳細はそちらをご覧いただきたいのですが(ゲームの本質を考える)、大雑把に言うとゲームは試合です。試合なのですから勝ち負けがあります。勝ち負けがあるということは、どうすれば勝ちになり、あるいは負けになるのかが決められているはずです。これが目的です。

ポケモンで考えてみましょう。ポケモンは相手ポケモンのHPを0にしていき、最終的に相手プレイヤーの手持ちポケモンを0にした方が勝利です。ですから、ざっくりと言えば、相手のポケモンを倒すことが目的になります。

さて、この目的を達成するにはどのような方法、手段があるでしょうか?攻撃ワザだけをポケモンに覚えさせ、相手ポケモンの弱点に応じてワザを選択することもできます。あるいは、無理に攻撃ワザを仕掛けるのではなく、状態異常を狙うこともできるでしょう。はたまた、相手の攻撃をわざと喰らい、アイテムでHPを1にして、そこから反撃していくこともできるはずです。

このように、目的を達成するための方法や手段がどれほどあるのかを示したものが自由度です。ポケモンの場合、上の例はざっくりとしていますが、どのポケモンを使うか、ポケモンのステータスをどうするか、アイテムは何を持たせるかなど、考えることは無数にありますから、自由度は極めて高いと言えます。

ここまで考えれば自由が何を意味するかはすぐにわかるはずです。つまり、何をしてもいいのです。部屋の模様替えをしてもいいし、ポケモンに変な名前を付けてもいいし、ボックスの中身をすべてイーブイにしてもいい。言うまでもないことですが、これは試合ではありません。目的がないからです。言い換えれば、自由なゲームは存在しないのです。ゲームは定義として目的があるため、目的を欠いたものはゲームとして成り立ちません。

最近のゲームの傾向

最近のゲームは自由を強調する傾向にあります。繰り返しになりますが、自由なゲームは存在しません。しかし、自由であることは、少なくとも売上には貢献しているようです。ではなぜ、プレイヤーはゲームに自由を求めるのでしょうか。

(それはゲームではないという指摘は「ゲームの本質を考える」に譲るとして)一つ考えられることとしては、現実認識が変化してきていることです。現実は自由ではないという認識が強くなってきています(実際には、現実ほど自由なものはないのですが)。これにより、現実ではできないことができるバーチャルに自由を求めるようになってきているのです。それに応じるように、ゲームのPRも、ストーリーの長さやマップの広大さ、アイテムの多さ、やり込み要素の充実度などを強調します。

しかし、ここが興味深いところなのですが、実際のプレイヤーはそれら複雑性を楽しむよりも、効率的な進め方を見つけ出し、それによってすべてを割り切ろうとします。すなわちプレイヤーは、一見複雑性を求めているように見えて、実はその複雑性を単純に割り切れることを求めているのです。攻略サイトの拡大・充実やチートがなくならないのはこれが大きく関係しているでしょう。

その意味では、プレイヤーは現実が自由ではないと本当に思っているわけではありません。むしろ、現実の複雑性を自覚しているからこそ、そしてその複雑性を割り切ることができないからこそ、ゲームというバーチャルを求めるのです。

リアルとバーチャル

リアルを直視できる人間は存在しません。だからこそ、人間は歴史的にバーチャルを介してリアルを捉えてきました。しかし、現代では、そのバーチャルが機能しなくなっています。ゆえに別の形でバーチャルを提示する必要に迫られました。その1つとしてゲームがあります。しかし、ゲームは、リアルを捉えるためというよりかは、むしろリアルとの距離を取ろうとするものであり、一種の逃避です。(ゲームだけに還元できませんが)これによって現実が複数あるという認識を生み出すことになります。端的に言って、それは現実でも何でもなく、ただの価値観なのですが。これはリアルに対する不信と言うべきものでしょう。リアルがわからなければ自由もわかりません。それがゲームの文脈で現れたのが自由と自由度の混同です。