学歴と偏差値と人生


このブログでは大学について書くことがあるのですけども、それもあってか「学歴」とか「偏差値」とか「Fラン」とか、そういった検索ワードでこのブログにアクセスする人がいるようです。たぶんおそらく、学歴コンプレックスとかそのへんに関するものだとは思うのですが、これについて私が思うところを書いておきたいと思います。

世間的な学歴への意識

はじめに私のことを簡単に言っておくと、京都の中堅私大を卒業して、その後にそれよりも偏差値的には上の大学院に行っています。

普段の会話の中で「大学どこだったの〜?」みたいなのがありますが、私は「学部は〇〇大で、院は〇〇大だよ」みたいに必ず両方を言うようにしています。相手は「あぁ、そうなんだ〜」みたいな典型的な反応をするのですが、たいていは微妙なニュアンスをそこから受けます。つまり「学歴ロンダかぁ、あまり触れないほうがいいな」みたいな感じです。

とはいえ、私には目的があってその大学を選んでおり、まあ宗教学(比較宗教学)をやっていて、学部と院で宗教の視点を変えたわけです。それを伝えると今度は「へぇ…」みたいな反応が帰ってきて「こいつヤベえんじゃねえの?」というような感じになるのがオチなのですけどね。これはこれで言いたいことがあるのですが、別の記事でも触れたのでここではいいでしょう(宗教を勉強していたら周囲から言われること)。

とにかく、学部と院で偏差値的な差があると、たいていは学歴コンプレックスとして解釈されるようです。これは私の周囲の話なので一般的にどうなのかわからないところもあるのですが、おそらくはどこでも似たような認識をされるのではないかと思っています。

また、私は偏差値的にレベルの異なる複数の大学を知っているので、それぞれの学生がどういう認識をしているのかも若干は見えます。京都の話をすると、興味深いのですが、京大だとそれなりに満足している様子で、同志社・立命レベルになると「京大・阪大・神大落ちた」的な感じで、龍谷・京産レベルだと「関関同立落ちた」的な感じで、仏大とか花園とか文教になってくると「産近甲龍すらも落ちた」というように、一番上以外は何かしらの不満を持っているようです。食堂とかに行けば、頻繁とは言わないものの、学歴の話をしている学生がいるのを確認できます。それくらい、学歴は影響力を持っています。

それで、この記事を書く前にネットで学歴について色々と調べてみました。興味深いのがありました。「Fラン 意義」でGoogle検索をかけると、関連する検索ワードに「fラン 生きてる価値」とか「fラン 生きる 価値」というようなものが出てきます。これは、いわゆるFラン大学そのものの意義ではなく、Fランに通っている学生の存在意義について問うているのだと思われます。学歴が生命に直結しているわけです(以前書いた「頭が悪くて何が悪い」について - nancoluにも関連すると思います)。

このような認識はいわゆるFラン大学だけでなく、それなりの高学歴(偏差値的な意味で)の大学でも起きているはずです。つまり、関関同立レベルなら京大・阪大の下位互換的な、産近甲龍なら関関同立の下位互換的な、そういう感じを持っていると思われます。

私からすれば、こんな認識は絶対に間違っています。偏差値だけで大学の価値が決まるわけがない。そして出身大学だけで人生が決まるわけがない。単純化しすぎではないでしょうか。

建学の精神

中には国公立という場合もあるかと思いますが、「Fラン」というぐらいですから、私立大学を念頭に考えてみます。

私立大学の場合、必ず建学の精神があります(国公立大にもあるという考え方もあるのですが、ここでは触れないでおきます)。この建学の精神は大学の根幹であり、アイデンティティであり、他大学のそれと交換できるものではありません。建学の精神があるならば、その大学には必ず独自の価値があるはずなのです。

日本で最初に生まれたのは東大で、その後も国立大が作られました。その意味で、すでに日本には「優れた」大学があったのです。しかし、私立大学の創立者は国立大学には満足しませんでした。つまり私立大学でなければできないことがあると考えていたわけです。

おそらく、私立大学の重要性を最も強く実感していた日本人は、同志社創立者の新島襄でしょう(京都だからといって別に肩入れしたいわけではないのですが)。彼は官立に徹底的に抵抗しました。お国から「一緒に働かないか」と呼びかけられてもそれを断って同志社設立に力を注いでいます。彼としては、国にただ仕えるだけの人間ではなく、キリスト教主義に基づいて自分の意思で判断し、行動できる人間を作りたかったのでしょう。それを実現するためには官立ではなく私立でなければならなかったのです。

ついでなので京都の大学の話をしますが、京都女子大学の創立者のひとりは、同志社女子大学の出身です。彼女は浄土真宗の信仰を持っていたのですが、同女で学ぶ中で、浄土真宗を建学の精神とした女子大学が必要であると強く考えました。その意思を実現するために京都女子大学が設立されています。現在では、同女と京女では若干ですけども前者の方が偏差値が高いようです。では、同女と京女では同女の方が「優れている」のでしょうか。そんなことはありません。同女はキリスト教主義であり、京女は真宗であって、それぞれに目指すところが違うからです。そもそも比較するのが間違っているとも言えるでしょう。偏差値の差を強調するならば、同志社と龍谷でも構いません。これにおいてもキリスト教主義と真宗で、全く異なるものであり、比較できるものではないです。

このようなことはどの大学においても言えることです。それぞれの大学にはそれぞれの目指すものがあります。そしてそれらは異なっているのであり、比較することにそれほど意味はありません。しかも、それを偏差値という数字だけで判断しようなんていうのは、馬鹿げていると言ってもいいのではないでしょうか。

たしかに、異なる大学でも同じ学問領域を扱っています。しかし、研究をするためにはやはり方向性があり、それを定めるためには何かしらの「主観」、大学で言うならば「理念」を前提することになります。たとえば、東大は世界で初めて工学部を作りました。大事なことなのでもう一度言いますが、世界で初めて工学部を作っているのです。これは、当時の情勢として、西洋に勝つための技術が必要だったからでした。やはり東大は国のためという理念を一応は持っているわけです。同志社にも工学はありましたが、それでも武器を作るようなことはしません。

滑り止めは仕方ないけども

大学にはそれぞれ理念があるのであり、それに共感できるところに進学すべきです。とはいえ、現代のように大学が大衆化してしまった状況では、滑り止めで入学するということもあるでしょう。それは仕方のないことです(とはいえ、結局は自分で選択したのですから自己責任ですけども。ただ自己責任というと別の意味で解釈されてしまうでしょうから、これ以上は触れません)。

しかし、たとえ滑り止めであったとしても、あとからでもいいですから、その大学が何を目指して設立されたのかを知ったほうがいいです。これを知っていれば、自分がいる大学の独自性がわかります。それが大学の価値です。大学の価値を知っていれば、その大学で学んでいるということに何かしらの意義を持つことができるでしょう。そうなれば、「Fランに通っている自分に価値はない」なんて発想には絶対にならないです。

学歴で、偏差値で人生が決まるなんてことは絶対に考えないほしいと私は思います。現実は無限に複雑で多様です。そして本来大学はそれを知るための場です。にもかからわず学歴・偏差値を批判的に捉えられないのは、大学生として失格でしょう。もちろん、学生に対して大学の価値を提示できない大学側にも大いに問題はありますが、学生側にも問題はあります。

さいごに

学歴に自信がない人に言いたいのですが、あなたが見ているのは現実ではなくて1つの価値観に過ぎないことを認知してください。