学問・芸術・ゲーム



全然まとまっていないのですが、書けるところまで書いてみます。

学問・芸術、そしてゲーム

学問と芸術を合わせて学術と呼ばれるように、この2つは密接な関係があります。私は、この2つの中にゲームを入れてもいいのではないかと思っているのです。

真善美という言葉があります。真は学問、美は芸術に対応します。そして、一般的には、善と道徳が対応すると考えられるようです。しかし、極端に言えば道徳は習慣であり、割と変化しがちなものが善と対応するのはどことなく違和感があります。善はもっと崇高で、普遍的なものであるはずです。

そこで、私は、善はゲームと対応するのではないかと私は思うのです。

ゲームとは?

まず前提として、ゲームとは何か、という問題があるのですが、これは長くなるので別の記事にまとめています(ゲームは本当にくだらないのか?そもそもゲームとは何か - nancolu)。かなり紛らわしい書き方になってしまったので徐々に修正していきたいと思っているのですが、ゲームの中心的な要素は、対戦相手、勝敗、戦略・戦術の3つがあると私は考えています。その意味で、一般的なイメージとしての「ゲーム」(例えばドラクエなど)とはかなり違っているので注意してください。

神とゲーム

現在では形骸化していますが、ゲームを始める前には、ふつう、宣誓をします。宣誓なのですから誓う対象がいるわけですけども、これは神です(古代ギリシアまでさかのぼります。長くなるのでここでは書きません)。ゲームでは人々が戦うわけですが、人がやることなのですから何らかの形で不正が行われる可能性があります。このような不正が行われないようにするために、神に「正々堂々戦います」と誓って、不正の可能性を排除するわけです。なぜ宣誓によって不正がなくなるのかというと、神に宣誓したにもかかわらず不正をすれば神から罰を受けてしまう、という考えが背景にあります。とにかくここで言いたいことは、ゲームは神を前提とする、ということです。

善とゲーム

ゲームは戦いなのですから、そこには人間の攻撃性が含まれます。攻撃というのは、これも定義が非常に難しい言葉ではあるのですが、必ずしも直接的なもののみを意味しません。もちろん、非難されるべきものも含みますが、それ以外にも、集団の中で優位に立ちたいという意志や、将来はこういう仕事をしてやるんだといった目的意識もある種の攻撃です。つまり、攻撃には両義性があります。攻撃そのものが悪いのではなく、使い方の問題です。私は、この人間が持たざるを得ない攻撃という要素を、「善い」ものとして活用することがある種の「善」なのではないか、と思うのです。

そして、ゲームは、攻撃の悪い側面を抑制し、善い側面を促進する機能を持っています。というのは、先ほども書いたように、ゲームは神を前提とするからです。正々堂々と戦うことを誓うのですから、それは必然的に善へと向かうのではないか、と私は考えています。

ゲームとスポーツ

もしかすると、「それだったらスポーツでいいじゃん」という反論があるかもしれません。これは私も気になっているのですが、ゲームとスポーツはどう異なるのか、というのは非常に難しい問題だと思います。ゲームとスポーツはかなりの部分が重なるのですが、しいて違いを言えば、徒競走を認めるか否かだろうと思うのです。認めるのがスポーツで認めないのがゲームです。そして、その意味で、もし仮に善が攻撃という概念と関係を持つのであれば(すみません、勉強不足でよくわからないのです)、スポーツよりもゲームのほうがふさわしいだろうと思われます。そういえば大学の講義で「スポーツと平和」というのがあったのですが、私は「ゲームと平和」のほうが合ってるのではないかと思っています。

さいごに

このブログのカテゴリで、明らかに「ゲーム」だけ浮いているように感じる人がいると思うのですが、私の中ではゲームはかなり重要なもので、ほかのカテゴリともしっかりと関係しているのです。ということを伝えたかったんです。