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eスポーツに反対


私はゲームが好きなのですが、eスポーツには反対です。その理由を簡単に書いておきたいと思います。

ゲームは遊び

ゲーム好きなんだったらeスポーツが盛んになるのは嬉しいのでは?と思われる方もいると思います。しかし、私としては、ゲームが好きだからこそeスポーツには反対したいのです。

その理由ですが、一言で言ってしまえば、ゲームは遊びだからです。ただ、この「遊び」という概念には誤解が多いので、少し説明をしておきます。

ホイジンガという人が『ホモ・ルーデンス』という著作の中で遊びの定義を述べています。

遊びとは、あるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に従っている。その規則はいったん受け入れられた以上は絶対的拘束力をもっている。遊びの目的は行為そのもののなかにある。それは緊張と歓びの感情を伴い、またこれは「日常生活」とは、「別のもの」という意識に裏付けられている。 

(引用:ホイジンガ(高橋英夫訳)『ホモ・ルーデンス』中公文庫、1973年)

ここだけでもいろいろと大切なことが書かれているのですが、特に重要なのが「遊びの目的は行為そのもののなかにある」という点です。ゲームで言うならば、ゲームの目的はゲームそのもののなかにあるということになります。

これがなぜ重要なのかというと、eスポーツでは賞金が問題となるからです。eスポーツを盛り上げるために、これの賛同者たちは賞金にこだわります。日本でeスポーツが普及しないのは賞金がないからだ、逆に言えば賞金があればeスポーツは普及するはずだ、というようにです。

ゲームに勝った「おまけ」として賞金が出るのならばまだわからないではないのですが、断言してもいいのですけども、絶対に逆転します。つまり、賞金のためにゲームに勝つという発想が主流になるはずです。こうなると遊びではなくなります。なぜなら、賞金のためにゲームであるということは、ゲームが目的ではなく手段として利用されているからです。

eスポーツが普及すればゲームがゲームでなくなってしまう。

(たまに「ゲームは遊びではない」と言う人がいます。これはおそらく「ゲームは真剣なんだ」と言いたいのでしょう。ですが、真剣な遊びは存在します。小学生の頃にやった鬼ごっこを思い出せばすぐに理解できるはずです)

安心して負けられることに意味がある

遊びが面白いのはそれが生存に直結しないからです。負けても何もならないからこそ楽しむ余裕が生まれます。もちろん、これは勝っても何もならないことをも意味するのですが、遊びは自発的にやるものであって、何もなかったとしても楽しめるのです(これがわからない人は端的に言ってかわいそうだと思います)。

ゲームに賞金が付けばどうなるでしょうか?勝つためにはより多くの時間をゲームに費やす必要が出てきます。ゲームを専業にする人も出てくるでしょう。そうなると、生活するためにはゲームに勝たなければなりません。負けてしまえばお金がもらない、生活できなくなってしまう。ゲームに勝たなければならない。こうなってしまうと義務であり、自発的に取り組むようなものではなくなってしまいます。スマブラで有名なZEROが辞めたのはまさにこの点にありました。「やりたい」と思えなくなってしまうのです。面白くないのです。

余裕のなさ

日本におけるeスポーツの状況を見ていると、どうも社会に余裕のなさを感じてしまいます。遊びがない。何でもかんでも利益に結び付けられてしまう。生産性のないものは無駄。生産のことばかりを考えているようですが、その生産の先のことを何も考えていないように思えます。強いて言えば「生産すれば幸せになれるはずだ」というような。今の社会には「生産」よりも「休息」が必要であるように思います。