どうぶつの森に見る日本の動物観


任天堂から発売されている「どうぶつの森」シリーズは日本で大人気のシミュレーションゲームです。また海外でも徐々に認知されるようになり、日本以外でも売上を伸ばしています。そんなどうぶつの森ですが、ここには日本の動物観がよく現れているように思われます。そこで、どうぶつの森を参考にしながら日本が伝統的に持つ動物観を考えてみます。

人格を持つ動物たち

どうぶつの森に登場する動物の多く(魚な虫などもいるのですべてではない)は人格を持っていると考えられます。まあ、正確にはプログラマーの指示で動いているだけなので人格などないわけですが、人格があるかのように振る舞っている点については異論はないでしょう。

動物たちが当たり前のように人格を持っているということは、日本と西洋の変身譚との比較から興味深いことであることがわかります。西洋の変身譚では人間が動物に変身することはあっても、その逆はあまりありません。人間が動物に変身した際、残念であるかのように描かれるのですが、これは人間は動物に優越するという価値観が背景にあります。また同様に、動物は人間よりも劣っているので、動物が人間になることは基本的にはないのです。

反対に日本の場合は、人間が動物に変身することも、その逆も同じくらいあります。ここからわかるのは、西洋に見られるような人間と動物の間の優劣が日本にはそれほどないということです。

どうぶつの森において、動物たちは、人間から動物になったのか、それとも動物が人間的になったのか、という問はあまり正確ではないのですが、変身譚のそれから考えると、どちらかと言えば前者に近いでしょう。正確に言うならば、動物たちははじめから人間的な人格を有していたということになるかと思われます。このような考え方は西洋においてはかなり異質です。というのは、繰り返しになりますが、動物は人間よりも劣っているのであり、その動物が人間と同じ人格を持っているのはありえないからです。

その意味で、動物がはじめから人格を持っているということは、極めて日本的であると言えるでしょう。

(補足しておくと、西洋では聖書の影響が強いのですが、これは聖書は動物を差別していることを意味しません。たとえば『コヘレトの言葉』3:21には「人間の霊は上に昇り、動物の霊は下に降ると誰が言えよう」(日本聖書協会 新共同訳聖書)とあります。しかし従来あまり注目されてこなかったのは事実です)

人間と動物は対等

動物たちが人格を持っていることから導き出せることですが、どうぶつの森においては、人間(主に主人公)と動物たちは対等であることがわかります。人間と動物との間に優劣の関係はありません。また主人公と動物たちとの日常的な会話(具体的な例は出しませんが)からも、人間と動物たちは対等の関係にあることがわかるでしょう。

ここでも変身譚の話をすると、西洋のそれは、人間が動物に変身して動物たちの中で生活をする場合、他の動物とは異質な存在として描かれる傾向にあります。どうぶつの森では人間はそのまま人間ですが、動物たちの住む世界に行っても(人間と動物の割合は動物の方が圧倒的に大きいので動物たちの世界だと思うのですが)異質な存在としては扱われていません。特に差があるようには描かれていないのが特徴です。

動物供養

これはちょっと無理矢理感が否めないのですが、一応書いておきます。

どうぶつの森では動物たちと最高レベルまで仲良くなると、その動物の写真がもらえます。また、動物たちはいずれ引っ越しをすることになります。引っ越しはある種の死別であり、写真はある種の供養です。

西洋、とりわけ聖書の伝統においては、動物を供養するという発想はあまりありません。むしろ、動物を神に捧げる供犠です。供犠の伝統では動物の写真を撮る、さらにそれを部屋に置くということはあまり考えられないでしょう。

まとめ

ざっくりとまとめると、どうぶつの森においては、人間と動物たちが対等な関係の中で交わり合う様子が描かれます。この背景には、人間と動物は本質的に同じであり、命を共有する者同士であるという日本の動物観があるように思われます。

しかし、現代の実際の日本はどうでしょうか。たとえば、スーパーに行けばパックに入れられた肉が当たり前のように陳列されています。このような現象はここ数十年程度のことであり、人類史上極めて稀です。伝統的に日本人は動物の命をもらう際には動物の痛みを感じたものでした。しかし、現代では動物の痛みを感じる機会はほとんどありません。

ですが、どうぶつの森を見ていると、まだ動物との関係を再構築する可能性があるように感じられます。