nancolu

一般人の個人ブログです

「誰でもいい」という象徴



「社会」というのはある種の信仰、宗教のようなものなのですが、それ自体が悪いことなのではなくて、社会があまりにも抽象的になりすぎてしまったのが問題なのだろうと個人的には思っています。

社会の定義はなかなか難しいですが、個別の人間が集まったところにあるシステムのようなものだと思うんです。確実に言えるのは「社会」という物体があるのではないということで、形はないけども社会というのがあるらしい、という感覚というか、ちょっと変な言い方をすれば思い込みのようなものです。虚構と言ってもいいと思うんですが。ただ、何度も書いているように、虚構が悪いのではありません。というか、虚構は、形はないけどもある意味では現実で、たとえば「日本」というのも、ものとしてはありませんが、実際に人々の生活に影響を与えて、現実に機能しているものです。

社会は人によって範囲が違います。昔の社会は、主に自分が住んでいる地元(パトリ)のことでした。それが、たぶん明治期くらいだと思うんですが、地元から日本へと移っていきます。別に社会が地域から日本に変わったからといって何か変化が起こるわけではないと思われるかもしれませんが、決定的な違いがあって、それが抽象度です。地元の場合は、地元に住んでいる人を具体的な形で人が存在していますが、日本である場合は具体的な形で人があるわけではありません。日本人といった場合、1億を超える人がいるわけですけども、それは一人ひとりの顔はわからず、「日本人」という抽象的な概念にすぎません。

それから、少し話が飛びますが、社会人についてです。社会人とは何かという疑問に対していろいろな答え方があると思いますが、これは極論、「自分は社会に属している」という意識の有無にあると私は考えています(中には会社に勤めたら社会人になると言う人もいるのですが、それならば、主婦や退職者は社会人ではないことになります。そういうことにしたいならばそれでもいいですけど)。そう考えると、社会人と非社会人の違いは明確です。社会に対してギブアンドテイクになるかどうかです。社会人は社会に所属しているという認識が強いため、困ったことがあれば社会に助けを求めることができますし、困っていないときは社会のために尽くします(それは家族に対する愛情に近いです)。一方、非社会人は、社会を信用していないため、社会に自分を合わせる必要があると考えます。合わせるということは合っていないということですから、社会人ではありません。そのために、社会から排除されないために価値を提供しなければならないと考えます。この場合の価値の提供はたいてい会社に属するという形をとられます。

さて、現代人の多くは、社会の範囲を日本と考えます。そして、非社会人である場合、社会からのプレッシャーを常に感じています。実際に会社で働いている場合は会社の迷惑にならないように常に成績を出さねばならないというプレッシャー、会社で働いていない場合は会社に属さないといけないというプレッシャーです。非社会人は抑圧を受けているわけです。その抑圧に耐えられなくなった場合、何らかの反発が起こります。反発の対象は、自分を抑圧し続けた社会です。しかし、社会という明確な実態は存在しないために、その象徴として「誰でもいい」が出てきます。

彼らも、社会がないとは思っていません。しかし、従来のとは違って、明確な形で社会をとらえることができず、自分を位置づける場として社会を「信じる」ことができなくなってしまった。社会は自分を受け入れてくれるという「信仰」を保つことができなくなってしまった。のではないかと思いました。