大学でキリスト教を教えることに意味はある?


キリスト教系の大学は多い

キリスト教に限らず宗教全般に言えることでもあるのですが、一応ここではキリスト教で考えてみたいと思います。

キリスト教に関連する大学は少なくありません。有名どころでは、上智大学、国際基督教大学、立教大学、青山学院大学、明治学院大学、同志社大学、関西学院大学、南山大学、西南学院大学といったところでしょうか。もちろんこれら以外にもキリスト教系の大学は日本に数多くあります。そのため、キリスト教の信仰を持っていない人でもキリスト教系の大学に通っている、通っていた人は多いはずです。

また、こういった大学では、信仰に関係なく、キリスト教に関する講義や建学の精神に関連した講義が行われる傾向があります。そのため、信仰のない人にとっては、場合によっては信仰を持つ人からも、「大学という客観的な学問を教える場で、神みたいな客観的に存在を確認できないものを教えてもいいのか?」といった疑問が出てくるのは、不思議ではないでしょう。

前置きが長くなりましたが、この疑問について私なりに考えてみたいと思います。

リアルとバーチャル

キリスト教を信仰してない人からすれば、神というのは人間が作りだしたものに過ぎず、バーチャルである、という理解があるのだろうと思います。そして、だからこそ、「そんな人間が作りだしたものを真剣に教えるなんてことをする必要はないでしょ?」と思うようになるのでしょう。

ここで問題になっていくるのは、では、バーチャルとは何か?バーチャルとは違うリアルとは何か?またリアルとバーチャルの関係はどうなっているのか?といった点であろうと思われます。

1つの例として国家を考えてみましょう。人はみな、基本的には何かしらの国家の中で生きています。しかし、自然としての地球上には国境線なんてものは存在しません。たしかに、フェンスなどが設けられていたりすることもありますが、あくまでもそれは人間が設置したものであり、自然として国境があるのではありません。つまり、国家は人間が作りだしたものであり、バーチャルです。

しかし、とは言っても、実際に私たちは、国家は存在するという前提がありますし、何かしら国家に属していると考えていますし、そして、国家の仕組みに基づいて生活を営んでいます。そういう意味では、たしかに国家はリアルなのです。

このように考えると、国家にはバーチャルとしての性質とリアルとしての性質があることがわかります。そして、このリアルとバーチャルの境界線はどこにあるのかというと、曖昧であると言わざるを得ません。リアルとバーチャルがないわけではないけども、でもその境界線を明確に引くことはできない、つまりリアルとバーチャルは区別することができないということがわかります。

ここでキリスト教がいうところの神について考えてみましょう。客観的に言ってしまえば、神の存在は確認のしようがなく(同時に、神が存在しないことも証明できないのですが)、人間の頭が神を作り出したのだと考えることもできます。その意味で、神はバーチャルです。

しかし、現実を見てみると、たしかに教会や神を意識して作られた大学などの施設は存在しています。神との関係の中で生きている人の活動は実際に行われているのであり、リアルなのです。なので、この現象を客観的に説明することは可能です。また、その活動がどのような思想によって行われたのかを理解するためにも、思想に関する勉強や研究は欠かせません。

ついでに言うと、神の存在を信じていなくても、神は存在するかもしれないという仮定に基づいて思考することはできます(それを信仰と呼ぶこともできるのですが)。この思考によって、自分を超越する視点が得られるので、自己相対化が行えます。これは他の学問でもまったく同じでしょう。

ちなみに、このようなリアルとバーチャルの関係を考えると、他の学問でも構造は同じようなものとして理解できます。経済学では主にお金に関して研究をしますが、お金は人間が作りだしたものであり、バーチャルです。しかし、だからといって経済学が無駄ということはなく、お金に基づいて人間が行動しているというリアルを研究しているのだからそれでいいのです。お金という仕組みを持たない民族(実際にあります)であったとしても、お金という仕組みを仮定することはできますから、お金を「信仰」していない人でも経済学はできるでしょう。

大学とキリスト教の関係

大学でキリスト教を教えることに意味はあるのか、という問いは、ある意味では日本ならではと言えるかもしれません。もちろん時代が時代ですから、海外でもそういう問いは出てくるでしょうけども、日本の事情は特殊であるように思われます。

そもそも、私たちが大学と聞いてイメージするものの起源は、常にキリスト教との関連を持っていました。中世に生まれたパリ大学やボローニャ大学、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学などはキリスト教との関連で生まれてきたもので、神が創造したというこの世界をより良く知るためにさまざまな研究をしていました。こういう歴史から見れば比較的最近(?)生まれたアメリカのハーバード大学やイェール大学といったアメリカ建国前からある大学も、アメリカ大陸に優れた教師を送り出すために作られています。

日本で初めての大学は東京帝国大学ですけども、日本の大学のイメージはこれが強いのかもしれません。東京帝国大学は当時のベルリン大学をモデルにしています。当時のベルリン大学も、時代もあって、そこまでキリスト教を重視していたわけではなかったようですが、それでも神学をないがしろにすることは決してなく、基礎として哲学を重んじ、神学部も置いていました。

それで、東京帝国大学は、当然ながら神学などなく、ベルリン大学に新しくできたばかりの理学部を設立当初から持ち、さらに世界で初めて工学部を設置しました。やはり時代が時代だったのでしょうね。その意味では、最近では大学の研究の在り方が問題にされたりしますけども、日本の大学は最初から「役に立つ研究」というのが意識されていたと言えます。なので、日本の大学でキリスト教を教えることに疑問を感じる人がいるのは、仕方がないのかもしれません。