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仏教は別に概念を嫌っているわけではなさそう(だと私は思う)



前から、仏教は概念を嫌う(言葉の概念とは何か、あと仏教の考え方 - nancolu)と思っていたのですが、どうもそうでもないような気がしてきました。仏教では基本的にあらゆるものは縁によって成り立っている、つまりいかなる存在も独立して存在しているわけではない、と考えます。そのため、私は、インクやバネやプラスチックの容器のかたまりをボールペンとみなしたり、液晶パネルや基盤のかたまりをスマホとみなしたり、あるいは頭とか足とか腕とかのかたまりを私とみなしたりする認識はよろしくないのだと思っていました。また、そういった概念から導き出される感情や価値判断もよろしくないんだと思っていました。

しかし、釈迦の言動を見ていると、どうもそうでもなさそうに思います。釈迦は悟ってから人々に教えを説いたわけですが、「人」が存在しなければ教えることはできません。また、釈迦に感情や価値判断をしなかったわけではないです。というのも、悟ったあとに町の風景を見て「美しい」と言っています。また、ここでそのまま書くとまずい気がするので書きませんが、釈迦はとある美しい女性に対してひどいことを言っています。たぶん、釈迦が現代に生き、それをツイッターに投稿したならば、炎上したことでしょう。それに、確か弟子に対してブチギレたこともあったと思います。こんな感じで、釈迦にも感情的なところはあったし、価値判断も行っていました。

とはいえ、独立した存在はないということ、つまり釈迦が縁を主張したのは事実です。ここから3つの認識をあげることができます。1つ目は、独立した存在はあるという認識です。普通の人はこの認識をしていると思います。2つ目は、独立した存在はないという認識です。3つ目は、独立した存在はあるでもないでもないという認識です。

1つ目に関してはそのままなので問題ありませんが、2つ目と3つ目に関して私は次のように解釈していました。つまり、独立した存在はないという認識をしている人は悟ったつもりになっているけども、実は存在を否定するためには前提として概念を必要とすることに気づいていない。そして、それをも超えている無記の状態こそが本当の悟りであり、釈迦が到達した状態なのだろう、ということです。言い換えれば、釈迦は概念を持たなかった、しかし弟子に教える以上は概念を持ち出さざるを得ず、仕方なしに概念がある前提で話していた、ということです。

ただ、先ほども書いたように、釈迦は町の風景を見て美しいと言っています。対人では仕方がないのかもしれませんが、風景に対してわざわざ美しいと価値判断を下す必要は感じられません。やっぱり、悟ったあとにも情緒的なものがあると考えるのが自然であるように思いますし、同時に概念を持ち出す必要もあるかと思います。

というわけで、3つの認識の解釈を変えてみたいと思います。1つ目はそのままです。2つ目は、独立した存在はないという事実、現実です。3つ目は、その現実を踏まえた上で、虚構としての存在を認めるという態度です。つまり、概念的なものはそもそもおかしいのだ、と考えるから変なことになるのです。概念は、言い換えれば、あらゆる独立した存在だと思っていたものは虚構なのだと考えれば何となく整合が取れるように私には感じられます。

独立した存在はあると認識する人が修行をして、実は独立した存在はないという縁を悟り、その上で現実と虚構のバランスを取りながら生きていく、という感じでしょうか。これであれば情緒的に生きることも可能であるはずです。あらゆる存在は相互依存関係にあるのであり、そういう意味で自然(もっと言えば宇宙)と一体の存在です。しかし、「私」という存在はあるように「思われる」のであり、「私」は自然と一体でありながらも部分として包摂される存在でもあります。これは一と多の緊張関係です。「私」は存在しないというのは現実でありながらも、存在すると思われるという虚構においてもまた現実です。だから「私」を想定して生きることもできるはずです。

なんとなく現象学っぽい感じがします。客観は存在するのか。それとも主観でしかありえないのか。そして、その中間としての妥当と思われる認識。こういう言い方をしたらちょっと乱暴ですけども、「ある」でも「ない」でもどっちでもいいのでしょう。どっちでもいいんだよ(笑)