中二病についての補足とその他自己について

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最近このブログで「中二病」という言葉をちょいちょい使っているんですが、それについてちょっと補足です。

中二病の補足

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この2つの記事で中二病という言葉を使っています。自己の形成には中二病を経験する必要があるということを書いてるんですが。これの補足を簡単にしておきたいと思います。

中二病は重要なものなのですが、中二病のままだと、それはそれで問題なんです。前提となる何らかの正しい価値観があって、それに反抗して自分が思う本当を実行すること、これが中二病なのですが、中二病のままだとダメで、その後にどうするかが重要になります。

自己の形成には、テーゼ⇒アンチテーゼ⇒ジンテーゼという3つの段階があります。前提とする何らかの正しいとされる価値観があって(テーゼ)、それに対して反発し自分の本当を重視する中二病(アンチテーゼ)、そして正しいと本当を統合させて自己ができあがります(ジンテーゼ)。

もし中二病のまま止まってしまって、このまま大人になってしまうと、いわゆる「ちょい悪」のような、大人なのか子どもなのか分からないような人間になります。

自己についての私の考え方

こんな感じで自己を作り上げるのはなかなか大変な作業が必要になってくるのですが、そもそも私は自己というのは存在しないと考えます。言い換えれば、「私」は「私」そのものでは証明することができない、ということです。

「私」というのはあらゆる関係性の総合です(仏教の縁が分かりやすいかも)。つまり「私」について説明するならば、例えば、「私」はあなたではないものである、というように「私」以外の何かを持ち出さなければ説明することができません。

なのでこれは、「私」は「私」ではないものとの関係である、つまり、「私」=「私」ではない、というわけの分からないことになるのですが、しかしそういうものなのでしょう。

だから「私」というのは自分探しのように探すものではなく、作り上げていくものであると考えています。

なんかこういうことを言うと、主体と客体だとか、心と体だとか、自由意思の有無だとかの話になってくるのかもしれませんが、あー面倒くさい(/・ω・)/

自己が凝り固まったら

自己と自我って使い分けるべきなんですかね?あと主体性とか。ちょっとよく分からないんですが。

ただ、あまり意識的ではなくても、思春期、15歳とか16歳くらいになると、ある程度は自分というのができてきます。ただこの段階では、経験も浅く、まともに考えることも難しいですから、かなり偏見に満ちています。

例えば思春期になるまでの間に「お金が大事なんだよ」「いい学校に行っていい会社に行くことが良いことなんだよ」というような教育を受ければ、その人はなんでもかんでも損得(お金)で価値を判断しようとして、大学受験に失敗したら人生終わり、就活に失敗したら人生終わり、というような考え方をするようになります(極端な例ですが)。

それでは極めて狭い視野の中で人生を送ることになるので、自分を一度壊して、再構築することが重要になります。それができるのが、最近流行りの(?)リベラルアーツです。リベラルは自由という意味ですが、これは自分からの自由です。色々な考え方を取り入れて偏見を取り除こう、ということです(ちなみに教養と専門を対立的に考えられることがあるのですが、そんなことはなく、専門的な教養というのもあります)。

そしてこれを手っ取り早くできるのが大学です。大学の勉強は役に立たないと言われますが、そんなのは当然で、大学は良い社会人ではなく、良い人格の形成を目的にしています。建学の精神を見ればよく分かると思います(でも大学の在り方に変化が求められているのも事実だと思います)。

また大学は一応は研究するところなのですが、研究で新しいことを発見して、今までの価値観を壊して、偏見をなくし、広い視野を養って、人格の形成につなげる、というサイクルがあります。新たな発見をするわけですから、社会的な利益につながることがあると同時に、社会的に非難されることも珍しくありません(地動説とか)。

 

だーっと書いたんであまりにもめちゃくちゃですが。すみません…。

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