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誕生日に死を考える

誕生日をむかえて、なんと26歳になりました。言い換えるならば、私は26年生きてきたということになります。毎回誕生日になると考えてしまうのですが、ていうか誕生日に関係なくいつも考えているんですけども、なぜ私は今まで生きてきたのか、というのを考えてしまうわけです。今回の場合は、なぜ私は26年生きてきたのか、というような感じでしょうか。

誰でも小さい頃に死について考えることはあると思うんです。だいたい小学校の高学年くらいから中学前半くらいに考える人が多いらしくて、そこから徐々に死を観念的に考えていくというか、忘れることができるようになるのだそうです。ちなみに私は中学に入ったくらいから死を考えるようになって、そして忘れることができずに、ずっと今まで考えているわけです(大学生のときはめっちゃ悩みましたね)。

死について考えていると(考えざるを得ないと)、リアリティがあると言ったらまた違うんですが、いつか私は必ず死ぬという考えが強くあります。だからこそ、誕生日をむかえるたびに、ここまで生きるとは思わなかった、と感じるんです。学生のときなんか成人むかえてる自分を想像できませんでしたからね。まあ何だかんだで成人をむかえて、さらにそこから6年も生きているんですけども。

よく、「日本の平均寿命は80年だ、それを考えると私の人生はもう折り返しています」みたいなことを言う人っているじゃないですか。こういう人ってたいてい私よりも年上なので、あまりこういうことを言っては失礼に当たるんですが、「お前、老があると思うなよ」とか思うんですね。私は常々感じるんですが、日本には死がないんですよ。だからみんな、いや「みんな」というのはちょっと範囲が大きすぎますが、そういう虚構の中で生きている人は多いなぁと。日本がそういうシステムを取っているので、その中で暮らしていたら、そうなるのは当然と言えば当然なんですが(しかし、色々な問題を抱えているとは言え、80歳まで生きていることに疑問を感じさせない程度には、日本は恵まれているのだろうと思います)。

この年齢になるとですね、小中学校のときの同級生が、何人か亡くなっているんですよね。死に年齢なんか関係ないんですよ。そしたら、その死はなぜ私ではなく同級生だったのか、みたいな疑問は当然起こりますよね。たまたまそうだった、としか言えないんですが、たまたまなんですよ。たまたまと言ったら亡くなられた方に失礼かもしれませんが、そういうことではなくて、それが私だったとしても、何も不思議なことはない、ということです。

最近では核家族化が進んだりだとか、マンションやアパートに住む人が多いために、他人の死を経験する人が少ないと聞きます。つまりおじいちゃんおばあちゃんの死やペットの死といったものですね。そういう意味では私は恵まれていた(?)んですが、父方と母方のおばあちゃん2人と、あと飼っていた犬(コイツ15年近く生きたんですよ)で3回、近くで他人の死を経験しました。同級生は遠く離れていたので、ちょっと近くにはいれなかったのですが、この経験は大きかったですね。ただ、そういう死を近くで見て、また今までずっと考えてきても、死がなんなのか全然わからないんです。死がわからんのに生なんかもっとわからん。私は一体なんなんだ。

人は死を意識するからこそ生きることができるのだそうです。いつかは死ぬから、それまでに生を全うしよう、ということなのでしょう。それを言うならば、私の本当にやりたいことは、とにかく静かでありたいと思うんです。この前NHKでたまたま見たんですが、なんだったかな、ネコが癌の宣告を受けて、その後、飼い主は慌てるんだけどネコは達観して死んでいく、というものだったんですが。これすごく良いなと思いました。死に方というのは生き方でもあると思うですが、こういうのは良いですね。それからこころの時代で、山折哲雄さんが紹介されていましたが、あの生き方は今の私には究極に見えます(大袈裟かな?)。あれになろうと思います。こんな不条理があって意味がわからんのに幸せなんてもんは求めませんよ、ただ幸せではなくても一瞬の安らぎのような、そういうのがあればいいかなと思うんです。

さて、なんだかんだで生きているんですし、またそれは私ではなく周囲のおかげですから感謝をすると共に、たかがしれていますけども、私には何ができるのかを考えながら、これからもやっていこうと思います。