声の技術を高めるだけでは声優にはなれない

声優の専門学校は本当に闇に満ちているのか

さっき書いたこの記事についてもうちょっと書いておきたいと思いました。記事のタイトルが偉い仰々しいですが、私は業界について全く知りませんし、興味もないので完全に素人です、すみません。

ただ表現について思うことがあるので、それだけもうちょっと書きたいんです。

技術を高めても中身がなければ意味がない

技術を高めればその道のプロになれると考えている人が多いと、個人的には感じているのですが、実際には技術は当然のこととして、それに+中身がなければなりません。

たとえば、すごい極端な例ですけども、このブログを読んでいる方は日本語を書くことができると思います。そこで、原稿用紙1枚程度に日本語で何か書いてください、何でもいいので。

と言われた時にスラスラと書ける人ってあまりいないと思うんですよ。日本語を書く技術は持っているわけですよね。でも書けない。なぜかと言えば、何を書けばいいのかわからないからです。

書くというのは表現形式の1つに過ぎず、何かを表現するための手段でしかありません。

声も同じです。声は何かを表現するための手段に過ぎません。ではその声で何を表現するのですか?

(どうでもいいですが、私は早期英語教育に反対です。なぜなら小さな日本の子どもには英語で表現するものがないからです)

手段の習得は意外と簡単

何かを表現するための手段、つまり声や書く、とったものの習得は意外と簡単です。形式にもよりますが、早いものだと1年かからないくらい、ほとんどのものは2~3年程度でそれなりのレベルにはなれるはずです。

技術の習得は難しいとは言われますが、この時代においてはかなり体系化が進んでいるでしょうし、本などの教材も豊富なので(少ない分野もあるでしょうけども)、それほど難しくはないです。

私がよく行くお寿司屋さんに失礼ながら質問したことがあるのですが、「寿司を握れるようになるまでどれくらいかかるのか」と聞いてしまいました。というのは、某エモンの発言が気に食わなかったからです。

寿司屋さん曰く、握り自体はだいたい2年から3年でできるそうです。握り自体はそれほど難しいわけではなくて、某エモンのように、実際に短期間でできるようになるのだそう。

ただ、ただですよ。食材の時期とか、握り以外の知識を全部習得して、本当に美味しいものを提供できるようになるには最低でも10年はかかるとのことです。

寿司職人の場合は、握る、という表現の手段を持っています。この手段の習得には2~3年かかると。そして最もおいしく食べられる食材の時期といった知識、つまり中身、表現したいものを握ることで形にしているわけです。

ということなんですが、これ伝わりますかね。手段の習得自体は重要ではあるけども本質ではなくて、本当に重要であるのは何を表現したいのか、ということであり、その中身をしっかりと自分のものにするには長い時間が必要だということです。

中身の習得

それでもう一度、声優に戻りますが、声優の表現の手段は声ですよね。それでは中身は?ということになるんですが。

声優の場合はその仕事上、前提として脚本があり、脚本を読むことになるんですけども、脚本というのは基本的には簡単な文字でしかなく、それにどのような解釈を与えるのかは声優の仕事になると思うんですね。これが中身だと思うんですよ。

だから解釈が甘いと、それが上手く声に反映されず、声は綺麗だけど何となく面白くない声になってしまうと思うんです。言い換えれば、個性のない声、とでも言うんですかね。

ではどうやったら上達できるのか、というと、ここは他のものを取り入れるしかないと思うんですよ。そしてそういうのが、文学、絵画、音楽、映画、芸能、というものになるんですが。

漫画家の手塚治虫さんが本当にいいこと言ってくれているので引用します。

君たち、漫画から漫画の勉強するのはやめなさい。一流の映画をみろ、一流の音楽を聞け、一流の芝居を見ろ、一流の本を読め。そして、それから自分の世界を作れ。

「漫画」を声優にすれば同じことです。どういうことかというと、声優から勉強をしても声の技術が上達するだけなんですよ。そしてくどいですが、声は手段でしかないわけですね。ではその声で何を表現するんですか?と。だから色々な作品に触れて、自分なりの世界を構築する必要があるんです。

この点をどうも理解できない人が多いように思うんですよね。

ユーチューバー・ブロガー

理解できていない代表格がユーチューバーとブロガーだと思うんです。

YouTubeというのは要は動画配信サービスなのですが、つまりは動画です。動画はもちろん手段です。でも彼らは動画そのものを目的化しています。何か伝えたいものがあって、それを伝えるために動画を撮っているのではなく、動画そのものが目的なんです。だから金太郎飴みたいにみんな同じことをやる羽目になる、結果としてつまらない。

ブロガーもユーチューバーと全く同じです。「ブログ書いたら稼げますよ!」と言って。ブログも手段じゃないですか。何を伝えたい、というのがないんです。だからはてなブログは月初にPV報告という中身のない記事が大量に生産される。ブログで稼げるというと聞こえはいいですが、日本語で稼げると言ってるのと同じですからね。確かに稼げますが。ただ、その日本語で何を表現するんですか?っていう。

ユーチューバーの定義が問題になることが(ないか)たまにあるようですが、私としては、YouTubeを目的化した人である、と答えますね。

型のない型破りは我流

ではなぜ彼らには中身がないのか、と考えた時に、やっぱり型を知らないことが原因として挙げられるんじゃないかな、と思います。

型破りというのはカッコいいですよね、好き勝手やっているようで。でも型破りというのは、型を持っている人間がやるから型破りになるんです。なので型破りというのは型の影響を存分に受けているんです。そして型をおさめていないそれはただの我流に過ぎません。我流に中身は伴いません。

面白いのが、私は今25歳なのでその世代ではないんですけども、尾崎豊の学校で反抗的なことをする歌詞に対して、今の人は「学校じゃなくて家でやればいいじゃん」と考えるようです。

こういうのがないんでしょうね。最近ではあまり聞かなくなりましたが「自分探し」というものです。尾崎豊の前提には学校があります。それに対して「俺はそうは思わねぇ!」という表現としてのそれです。これを型と呼んでいいのか分かりませんが、ここでは学校が型として機能していると考えることもできるでしょう。自分は何かの前提によって成り立っているということです。

今の人って、まあ私もなんですけども、蓄積がないじゃないですか。核家族化が進んで家系図も知らない。そんな状態でどこに自分を位置づけろというのか。前提がないんです。前提がないのに自分は生まれません。何もないのにそこから自分を見出そうって、無から有が生まれるのか?

逆説的に思えるかもしれませんが、自分を探すのならば、まずは多くのものを取り入れなければなりません。そしてその取り入れたものから自分というものが生まれてきます。そしてそれが中身になります。

まとめ

私も素人なので、こんなことを書いても何にもならないんですが、やっぱり勉強というのは非常に重要だなぁと感じます。

もちろん技術が重要なのは言うまでもありません。しかし技術だけでは不十分で、表現したい中身がなければ技術は役に立たないと私は考えています。

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