生死について考えだすと本当に何が何だか分かんなくなる

あまりまとまっていないので、トンデモとして楽しんでくださいね。

一人称の死

子供を持ちたくない理由・結婚したくない理由・恋愛したくない理由
1か月仕事を休んでみて思ったこと
会社はやっぱり好きになれない

何で私は死ぬのかな、どのように生きて行くのか良いんだろう、何ができるんだろう、というようなことはしょっちゅう考えていて(別に病気を抱えているとかではなくて純粋な疑問なんですけども)、上のような記事も書いているんですが、生死について考えると何が何だか分からなくなってきます。

死ぬのが分かっているのに何で生きて行かなければならないんだ、というようなことはよく思うんですが、でもこれって実は簡単な話で、私の死というのは私自身が観測できるわけではないので、極端な話、ないわけですね。確かに私以外の他人が私の死体を観測することはできるでしょうけども、あくまでも私は私の死体を観測できないんですから(死んでいるので)、私においては私の死というのはありえないわけです。だから心配したところで意味がないんですけどね。

これは養老孟司さんが『死の壁』で書いていらっしゃいますけども、一人称の死というやつです。それから終章に書いてあるんですけども、

簡単にいえば、「どうせ死ぬんだから慌てるんじゃねえ」というのが私の結論です。こう言うと「どうせ死ぬんだから今死んでもいいじゃないか」と言う奴がいるかもしれませんが、それは論理としては成立していない。なぜなら、それは「どうせ腹が減るから喰うのをやめよう」「どうせ汚れるから掃除しない」というのと同じことだからです。

というわけなんです。

このブログではしょっちゅう書いているんですが、私は死にたいわけではなくて、むしろ何で死ななきゃいけないんだ、という考え方なんですね。そういう意味では誤解しないでいただきたいんですが。

確かに考えても無駄なんですが、でも死ぬのは分かっているわけですし、その中で生きて行くなら、どういう生き方があるのかなとか、でも何だかんだ言って死ぬのって理不尽だよねとか、色々悩むわけです。自分で言うものなんですけども、まだ若いですし(たぶん)。

悩んでいる私とは何か

となった時に、この悩んでいる私って一体何なのかな?という疑問が起こります。何なんですかね、私って。

私の体は何で成り立っているのかなぁ、ということを考えると、まあ細胞で出来ているんですが、その細胞は生まれてから死ぬまでずっと一緒なのかというとそんなことはなくて、数か月で入れ替わっています。今の私と数か月前の私では確実に別人になっているわけですが、普通はそうは考えません。

ていうか、分子レベルで考えたら私はただの点の集合体にしか過ぎないわけですが、何かよく分からないですけどもそれで成り立っているわけですよね。私には36度程度の体温がありますが、原子に温度なんかありませんし、不思議です。科学ではこれを創発と呼ぶそうなんですけども、なぜ創発が起こるのかは分かっていないようです。何なんでしょう。

まあとりあえず、よく分からないけど私が成り立っていて、体が変わっていても私が変わらないのはアイデンティティというものがあるのだろうと思うんです。これもなかなか難しいですが、強いて説明しようとするならば、私を説明するのに私以外のものを持ち出さないといけないわけです。私の中にある私に関するものだけで説明すると絶対失敗するみたいで、なので私を説明するなら、私はAではないものである、私はBではないものである、私はCでは…の総合になります。だから私のアイデンティティは誰かに依存せざるを得ないみたいなんです。私ではないものが私である、っていうね(笑)

アイデンティティもよく分からないんですが、アイデンティティは私の意識なんだろうと思います。じゃあ、その意識はどこにあるのかというと、まあ脳なんでしょうけども、これもよく分からないんです。なぜ脳は意識を持てるのかということなんですが。

脳にある海馬を出発点として、電気信号が脳内でぐるぐると回っているそうです。そしてそのぐるぐるという混沌から秩序が生まれる瞬間があります。それが意識らしいんですね。脳の特定のどこかに意識があるのではなくて、全体の働きから生まれるようです。これもある種の創発なんでしょう。海という混沌から渦巻という秩序が生まれるような感じです。

それでこの意識なんですけども、例えば手を挙げます。このとき「手を挙げよう」と思って実際に手を挙げます。しかし不思議なことに、「手を挙げよう」と思う前に脳は反応しているようなんです。つまり、脳が反応する⇒手を挙げようと思う⇒手が上がる、という順序になります。手を挙げようと思う約0.35秒前に既に脳が指令を出しているんですね。

それから人工の盲点というのがあります。赤、黒と白の縞々模様、緑の三種類のパネルを順番に人に見せます(このとき本人は何を見せられるかは分かりません)。最初に赤を見せ、次に縞々を見せます。そのときに視覚野に電流を流し、人工的に磁界を発生させ、部分的に見えない箇所を生み出します。つまり縞々のパネルの一部分がぽっかりと空いたように見えるわけですね。その後に緑を見せます。さて、ぽっかりと空いた部分は何色に見えるでしょう、という実験。なんと結果は緑が見えます。縞々を見せている時はまだ緑を見せていないのに、です。当然未来予知なんて出来ませんが、これは意識に時間的なズレがあるということです。

自由意志は本当にあるのか、というところからなんか怪しいわけですが、よく分からないけども、意識というのは時間と何らかの関係があるようです。

時間とは?

では時間とは何なのか、と考えると、これがまた意味が分からないんですね。時間を扱う科学と言えば相対性理論がありますが、同じ現象でも観測者によっては別の時間に起きていることが起こるようです。

例えば、走っている電車で車両の両端から車掌さんが同時にドアの扉を開けて入ってきたとします。車内からみると前と後ろの車掌は同時に入ってくるように見えるのですが、車外から見るとズレているように見えます。

某哲学者は、現在しかないと言います。未来はまだ来ていないから存在しないし、過去は既に過ぎ去っており、現在において再構成するしかないからです。そして現在と過去の断絶をつなぐのが「私」であると考えることもあります。しかし相対性理論でいうならば、上記の例のように現在と同じように過去と未来がなければおかしいことになります。

ちなみに科学的には過去と未来は区別できません。例えば、ボールを上に投げるとします。すると、手から近いところではスピードがあってドンドン上に飛んでいき、手から離れるにつれスピードが落ちていき、一番上で止まって、そしてまた下に落ちてきます。落ちて、つまり手に近づくほどにスピードは加速していくわけです。これ反対にしても全く同じなんですね。区別できないんです。

どうなんですかね、時間なんかないのかもしれませんね。ちなみに、相対性理論とよくセットで語られるのが量子力学です。ただこの2つ、点粒子で考えると重力と量子力学は矛盾してしまうため、何とか統合できないかということで超弦理論というのが生まれました。素粒子は弦であり、その振動によって形が変化するというものです。これを考えていくとブラックホールの表面の話になっていくんですが、あれ?これはホログラムなのでは?ということで空間すら怪しくなってきたっていう。

さいごに

なんかあらゆるものが怪しいんですけども、どうなっているんでしょう…。私は客観的な世界はあると思います。なので唯識思想のような考え方はしません。しかし、当たり前のように過ごしている世界というのがよくわからないもので出来ている、また私自身もよくわからない、とは言えそうです。

ただ分からない分からないと言っていても何にもなりませんから、大切なことは人間的次元の中で人間について考えることなんだろうと思います。

そういう意味では仏教の毒矢のたとえは面白いですね。毒矢が飛んできて刺さってしまった、そのときに「この矢を放ったのは誰だろうか、この矢はどんな材料でできているんだろうか、矢の羽はどんな鳥のものだろうか」とか考えてる暇があったらサッサと矢を抜け、ということです。どうでもいいことを考える暇があるんだったら、やるべきことをやれよ、ということです。懸命に生きよう。