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千利休とキリスト教の決定的な違い



千利休とキリスト教

千利休とキリスト教が似ているというのは割とよく言われることです。場合によっては、千利休はキリスト教徒であったとする説が主張されることもあるようですが、まあ、いいでしょう。

千利休とキリスト教の類似点ですが、詳しくは書きませんけども(ネットで検索すれば色々出てきますよ)、例えば、茶室に入る際は「にじり口」と呼ばれる狭い入口を使わないといけないのですが、これは聖書に書かれている「狭い門から入りなさい」と類似します。それにお茶の回し飲みは、最後の晩餐、聖餐にみられる共食の影響が伺えますし、茶碗を挙げる動作は聖杯を挙げる動作に通じます。こんな感じの類似点がちょこちょこあるんです(ちなみに茶とキリスト教の関係には分かっていないことがたくさんあります、しっかりと説明されているわけではありません)。

千利休とキリスト教の違い

この両者の違いを一言で言うならば、対象だと思います。

千利休はお金持ちの家庭に生まれ、お偉いさんとの交流が盛んでした。また、千利休がお茶を出したのも地位の高い人です。それに対してキリスト教、イエスに関しては、その対象は貧しい人々であり、お金持ちに対して「財産を捨てなさい」というようなことも言っています。

確かに、千利休とキリスト教の精神的なところは非常に似ているところが多く、また千利休の茶室も非常に簡素なものなので、イエスの「貧しさ」と似ているところもあります。

しかし千利休のそれは、前提に、地位とか権威とか教養とか、そういう高級なものがあります。茶室では刀(地位)を置かせるので、ある意味では「財産を捨てなさい」にも似ていますが、あくまでも一時的に置くのであって、捨てろとは言っていません。これは言うならば、現代人が都会の贅沢な生活に疲れて一時的に田舎に移住するようなものでしょう。

端的に言えば、千利休は物質的には豊かでも精神的には貧しい人を対象としてのに対し、キリスト教、イエスは物質的にも精神的にも貧しい人を対象にしています。

そのように考えれば、千利休とキリスト教は似てはいるけども、決定的に異なるものであると思います。