nancolu

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「なぜ生きるのか」と問うこと自体がおかしい

問いがおかしい

「なぜ生きるのか」という問いをより具体的にするならば、「なぜ『私』は生きるのか」ということになると思いますが、この「私」というのがどうもおかしいように思います。「純粋なる私」というのを想定して、そこを出発点として問いを立てているからです。

簡単に言えば「私は私だ」ですが、前の「私」と後の「私」の関係性の問題であって、ここには差異がなければなりません。つまるところ、「私は私と非私との関係である」ということなので(より単純にすると「私=非私」ということになり違和感があるだろうと思いますが)、「純粋なる私」を想定して「なぜ私は生きるのか」と問うと必ず失敗します(これって数学の不完全性定理からも言えるんですかね?今のそれはゲーデルのそれからかなり発展しているみたいなんですけども)。

ではどうすればいいのか、ということになるんですけども、最初に「私」から出発するのではなくて、「私」の前提から出発することです。「私」を構成するものを考えると、「私」の周辺、早い話が社会だと思いますが、社会においての「私」を考えることです。

「なぜ生きるのか」は要は価値を問うているわけですが、つまり「社会において私の価値は何か」ということであり、より建設的な考え方としては「社会において私は何をすることができるのか」といった感じになるかと思います。このように考えれば、多少は具体的な行動を思いつくことができるのではないでしょうか。

また社会は実体があるわけではありませんし、社会が何かを喋るわけでもありません。なので社会を理解するためには「私」の主観的な判断が必要になります。「純粋なる私」が存在しないからといって「私」が存在しないのではありません。なので「私」には「私(もちろん社会を前提としているんですけども)」と「社会的私」があります。この2つをバランスよく捉えるのが重要です。

「私」を意識しすぎると(これを徹底すると「純粋なる私」になります。もちろんそんなのはないために)「私」の存在意義について悩むことになり、「社会的私」を意識しすぎると、色々なことが考えられますが、過労死みたいなことが出てくるだろうと思います(しかし「純粋な社会的私」というのもないと思います)。

「純粋なる私」と大衆性

何となく「純粋なる私」と大衆性には密接な関係があるような気がしてなりません。大衆性の重要な要素として傲慢性と自己閉塞性の2つがあるそうです(大衆性って学術的なしっかりとした研究があるんですね - nancolu)。

最近若い世代を中心に精神病になってしまう人が増加しているそうなのですが、傲慢性と自己閉塞性によって「純粋なる私」を想定してしまい、結果的に自分の存在意義が見い出せずに鬱という形で表れているのではないでしょうか。他人がなければ自分は存在しえないのに、自分が消えてなくなりそうで怖いがために、他人を受け入れることができず、結果として自滅せざるを得ない、というような。

そう思うと、SNSに見られる承認欲求やマンガやJ-popの奇妙な表現などの見方が変わってくるように思います。どこかひねくれています。自分について自信がないのにも関わらず、同時に傲慢性と自己閉塞性が高く、自分は正しいと思っていて、そういう状態の自分を他人から「いいね!」をもらうことで承認してもらおうとしている。

YouTubeなどの音楽とかの動画のコメント欄で、誰かがその音楽を批判すると、それに対して猛烈に抗議する人がいます。批判する人はあくまでも批判をしているのですが、それに抗議をする方は批判者の人格を非難する傾向があります。これは自分が好きな音楽を批判(本人には否定に見える)されることで、自分の正しさが揺らぐために、音楽の否定=自分の存在意義の否定になっているのかもしれません。