人生において何をしていくべきなんだろう?

何をすべきなのだろう?

またシュヴァイツァーの生命への畏敬なんです(「生きる意味とは何か」に対してどうするか)。私というのが他の生きようと欲する存在の犠牲によって成り立っているわけですが、またその総合である私というのには主体性が伴っているように思われます(実際のところ自由意志があるかどうかは分からないのですが)。

その犠牲というのはエネルギーと言い変えることもできると思うのですが、そのエネルギーが1か所に集まって私が成り立っているわけですけども、このエネルギーをどのように使うかというのは私という主体性にゆだねられているのだと思います。このエネルギーをどう使うかというのは割と大事なことではないでしょうか。

株式会社とその株主で考えると分かりやすいかもしれません。株式会社というのは株主の出資によって成り立っているので、あくまでも株主の利益を考えた上で活動をしていくことになります。つまり株主からお金を出してもらって、十分にお金が手元にある状態になっても、そのお金は株式会社が好き勝手に使っていいわけではないということです。確かに、株式会社は自由にお金の使い方を考え、実際に使うことができるという主体性があるのですが、それはあくまでも株主の利益の範疇に限られることになります。

これは私の体についても同じことが言えるように思います。私の体を分子レベルまで考えるならば、他の犠牲によって成り立っているわけで、またその総合である私は、体を自由に動かすことができます(そのように思われます)。ならば、これは自分の好き勝手に体を動かしていいわけではなく、私という株式会社の株主である犠牲の利益のことを考えて行動する必要があるのではないかと、いうわけでなんですが。

そしてこの犠牲の利益というのを考えると、うーん、あまり私にとってあまり都合のいい答えではないので書きたくないですね…。先日、北海道の旭山動物園の元園長の講演会に行ったのですが、そのときの話が思い出されました。正直なところ、その講演会のおそらく結論であろう部分に対して、私は「それは違うと思う」と感じたのですが、よくよく考えてみれば、確かにその結論になりそうな気がします(ちなみに講演会はめっちゃ面白かったです、えらい笑いました)。

それから、生きて行く以上は他の動物の犠牲は常に必要としますから、生命への畏敬を考えるならば、できる限り犠牲は少ない方がいいと思うんですけども、つまりより少ない資源でより大きな成果を出すことが求められます。これは会社経営と同じですね、投資と黒字の連続です。私という会社に犠牲という投資をし、その犠牲以上の黒字を常に出し続けるということ。

(でも資源の量って変わらんよなぁ、変換しかできませんよね、無駄だと思われていた資源の活用?うーん…)

シュヴァイツァーの生命への畏敬という考え方
「生きる意味とは何か」に対してどうするか
人生はむなしい、バカらしい、何のために生きるの
中二病についての補足とその他自己について