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一般人の個人ブログです

人生は本当に虚しいのか?

「人生 むなしい」という検索ワード

最近の私の趣味(?)は、このブログの読者がどのような検索ワードでアクセスしてきたのかを知ることです。

ブログを書いている人や多少ネットに詳しい人にとっては当たり前のことではあると思うのですが、ブログの運営者はどのような検索ワードからアクセスがあるのかを解析することができます。それを見ることによって「なるほど、読者はそういうことに興味があるんだな」みたいなことを考えることができるわけですね。

それでいつも検索ワードを見ているんですけども、どうも「人生 むなしい」とか「人生 無意味」とか「生きる意味とは?」みたいなのが多いんです。まあね、このブログではそういうことに関する記事をいっぱい書いてきましたから、そういう検索ワードがあるのは当然のことです。

ただ、自分でもひねくれてるなと思うのですが、そういうことを言われると、いや違う!と言いたくなるのが私なんです。というわけで人生はむなしくはないと言いたいと思います。

人生は虚しくはない

あまり難しいことは書きたくないのでシンプルに行きましょう。非常に簡単なことです。

人生は無意味だというのはその通りなのだろうと思います。この世界で起きているすべてのことは単なる現象であって、そこに本来意味はありません。そんな現象だけの世界になんか知らないけども生まれてきて、そしていつかは100%死ぬ「私」という存在。この人生に何の意味があるというのか。人生は虚しい…。

大体こんな感じだろうと思います。しかし無意味であるならばなぜわざわざ無意味だと言う必要があるのでしょうか。これは逆説的ではありますが、どこかに意味があるはずだという思い込みがあるからこそ、その反動として人生は無意味であると言うわけです。本来意味のない現象に対して虚しいと言うことは価値判断であり、意味付けです。

結局のところ、本来単なる現象でしかない人生に対して虚しいものだという解釈をし、その文脈の中で生きるからこそ虚しくなるのです。ある意味、自分で自分の首を絞めているようなものです。

人生は無意味だという主張がまさに無意味を理解していない証拠です。生きることは無意味なのであれば死ぬこともまた無意味です。そして今は生きているのですからわざわざ死を急ぐ必要もないでしょう。ただ生きていればいいじゃないですか。

また生きて何をすればいいのか分からないというのであれば、おそらく主観を認識できていません。よく「主観的な考え方は良くない」と言われることがありますが、主観的な考え方ができない人(主観を認識できていない人)は客観的に考えることもできません。

客観的に考えることができないのであれば、この世界やまたそこに生きている「私」の人生に意味はないという主張もできないはずです。結局元に戻ってしまうのですが、「人生に意味はない、虚しい」という考え方こそが偏った主観的認識なのです。

「さっき主観的な考え方ができないのに今度は主観的に考えているじゃないか」と言う人がいるかもしれませんが、それこそ主観を理解していない証拠です(詳しくはこの記事の最後の方「危機感がない?危険かどうかの判断も他人が基準? - nancolu」)。

意味がほしいなら

もし人生に意味を持たせたいのであれば、自分を社会に位置づけることです。意味は人からしか生まれません。なので人と接するしかありません。「人生は虚しい」と人生を意味付けているのと同じ程度に「人生は楽しい」と意味づけても良いのですが、多くの場合はそれでは納得できないでしょうから、自分以外の他人を使うしかありませんね。

人間は本来社会的な生き物であり、一人だけで生きて行くことはできませんから、何らかの形で必然的に意味を感じることにはなるだろうと思います。しかしその社会が作りだした意味に押しつぶされてしまう人も珍しくないですから、そこらへんは注意しなければなりません。