nancolu

一般人の個人ブログです

小学生の病である「この世界は僕の妄想なんだ!」の再来

この前「やっぱ人生苦しいっすよ…! - nancolu」っていうわけの分からない記事を出したんですけども、これ仏教を勉強していてのアレなんですね。このブログでは「人生は苦だ!」みたいなことをずっと書いてきているんですけども、やっぱり苦について語った仏教や釈尊の考えには面白いものを感じるもので、それでこういう記事が出たんですよ(笑)

ここ最近の私の葛藤を見てみるとなかなか面白いんですけども、ちょっと内容的にマズイところがあるような気がするけども、書いておこうと思います。トンデモとして読んでください。

私の仏教理解

まず仏教です。仏教の理解の仕方には色々あると思うんですが、ここで書くのはあくまでも私の理解です。これが正しいとか、他の考え方が間違っているみたいなことを言うつもりはないんで。ちなみに私は仏教を宗教というよりも哲学に近いものだと思っています。

まず釈尊がいう「苦」ですが、これは不満足という意味だろうと思います。肉体的な苦痛とかの意味で苦を解釈することが多いと思うのですが、必ずしも現代で考えるところの苦とは同じではありません。また「一切皆苦」と言いますけども、これは「一切行苦」だと思います。

そして釈尊は苦が生じる原因として執着するからであると言いました。そこで「無我」とか「諸行無常」という概念が出てきます。普通に考えれば「我が無いなんてあり得ない、今こうやって考えてたり体を動かしている私は存在するじゃないか」ってなりそうなのですが、釈尊が言う無我は唯一にして不変の純粋な私は存在しないという程度の意味です。

例えば、私たちは日々いろいろなことを考えますが、必ずしも自分で考えているわけではなく、急に考えがふっと浮かんでくることが多いです。また体は自分の意思とは関係なく動いたり(心臓とか)病気になったりするため、自分でコントロールできるものではありません(現代では、心理学や脳科学などにより無意識の領域が発見され、自由意志は存在しない可能性も出てきており、体は日々変化する細胞によって成り立っていることが分かっています)。そういう意味での無我です。言い換えれば、「私」は「私」単体で成り立っているのではなく、あらゆる関係性によって成り立っているということです。諸行無常も同じことで、どんなものにも固有の性質はありません。関係性によって成り立っています。この関係性のことを「縁起」と言います。

よくよく考えれば当然のことなのですが、例えば山は存在しません。平地の中にある出っ張りを「山」という名前を付けて認識しているに過ぎません。またなぜ出っ張りがあるのかというと、平地という関係性においてです(逆に平地は山との関係において)。

こんな感じで、関係性によって成り立っていて固有の性質を持っていないものに対して、私たちは名前を付けて何か固有のもの(アイデンティティ)を「ある」と見なしています。執着とはそういうことです。本来ないにも関わらず、固有の性質を持った特定の概念を作って「ある」と考えるからこそ、おかしなことになり、それが苦を生み出します。

ちなみに有名な「輪廻」は、死んだ後に別の生命として生まれ変わることではありません。生まれ変わると考えるならば本質的な私(魂)を想定することになりますが、無我つまり固有の私はないために生まれ変わることはありません。釈尊の言う輪廻は死後のことではなく、この生において発生し、具体的に言うならば意欲・精神と行為・現象の連続です。例えば、「おいしいものを食べたい」→実際に食べる→「もっとおいしいものを食べたい」→実際に食べる→「もっともっと…」→…、という感じです。そして執着をなくすことで輪廻が止まり、それを涅槃、つまり悟りと言います。

とまあ、こんな感じで私は仏教を理解しています。とりあえずそういうことで話を進めますけども、これは確かに正しいことを言っているように思います。つまるところ、あらゆるものに価値や意味はない、人間が勝手にあると想定してそれに執着して勝手に苦しんでいるに過ぎない、ということを言っているわけです。

極端ですけども、病気になったら苦しいわけですが、それを「悪いものだ」と考えるのは解釈です。病気になったら痛みを感じるかもしれないけども、痛いのは現象であって、自然界には痛みに対して本来、よいも悪いもないわけです。もっと言えば、苦しんでいる「私」というのも怪しいですよね。「私の体」なんてものはないのですから。

ちなみに悟っても痛みは感じます。第一の矢と第二の矢のたとえがあったと思うんですが、一般人は例えば病気という第一の矢を受けた時に痛いと感じ、その後に第二の矢として「痛いのはヤダ!」と価値判断を下しますが、悟った人は病気という第一の矢を受けて痛いと感じても、第二の矢、つまり価値判断には至りません。釈尊は腹痛で死にましたが、悟った釈尊も腹が痛いと感じたのであり、そのまま普通に死んでいます。

理論としては完璧ですよね。でもやっぱり「それは違うでしょ」と私は思ってしまうわけです。だからこそ「やっぱ人生苦しいっすよ…! - nancolu」で事故はイヤでしょって書いたわけですね。それにこれを認めるならば、あらゆるものに価値がないんだから、意思なんか生まれようもないし、何も行動できなくなってしまいます。それに自分という存在も含めてあらゆるものは関係性なんだから、あるでもないでもない、という極めて曖昧な世界が展開されることになります。

なので仏教の考え方に触れると「いや、でも…」と思うんですが、釈尊に言わせれば、その「でも」が執着している証拠であるということなのでしょう。

科学もだいたい一緒

この、あくまでも私の理解ですけども、仏教の考え方をあり得ないものとして切り捨てても、結局のところ同じような問題になるんですね。科学です。

当然ながら科学は客観的なものであり、そこに価値判断は含まれませんから、現象は現象であって、それ以上でもそれ以下でもありません。病気は病気、事故は事故、良くも悪くもありません。

科学的に言えば、地球は太陽の周りをまわっていて、地球以外にもたくさんの惑星があり、膨大な数の惑星を抱えた銀河系が膨大にあって、その膨大な銀河系を抱える銀河団が膨大にあって、最近ではそれら膨大な星々を抱える宇宙が複数個存在する多元宇宙論という説もあります。

地球に意味はないし、そこに住んでいる人間というのも他の動物とそんな大して変わるわけではありません。これらの宇宙に存在するすべての存在は人間も含め原子、さらにクォークというめちゃくちゃ小さい点と4つの力の総合です。またそれら素粒子には波と粒の2つの性質があって、普段は波、「見られる」などの関係性が生じると粒となるようです。相対性理論と量子力学の統合理論として注目されている超弦理論(物質の最小は弦で、これが振動することで粒子になる)というのもありますが、これを発展させていくと世界は3次元ではなく2次元であるというホログラム仮説も出てくるようです。

生物だろうが無生物だろうがあらゆる物質はそういった素粒子の総合であって、生物と無生物にそれほどの差があるわけでもなく、またそんなところから自由意志なんてものが生まれてくるはずもない(自由意志は今でも激しい議論があります。ちなみに部分の性質の単純な総和にとどまらない特性が全体として現れることを創発といいます。なぜ創発が起こるのかはわかっていません)。

というような感じで、科学的に考えても人間やこの世界には何の意味も見いだせないことになります。

科学も万能ではない

中には科学は万能であると考える人もいるようですけども、必ずしも科学が万能であるとは限りません。というかそもそも科学が本当に正しいものであるのかは判断することができません。

結局のところ科学も人間が行うからです。客観的に考えるためには前提として主観に頼らざるを得ません。人間の枠組みを超えて考えるのは非常に困難になります。(宗教を信仰している科学者は珍しくありません。宗教と科学は必ずしも対立するものではありません)

素粒子は波と粒の性質があり、これは人間からすれば矛盾するように思えますけども、それで世界は成り立っているのですし、「見られる」という表現も他に言葉がないからそうせざるを得ないわけです。人間はどうも階層的に考えるようで、概念や言葉は階層構造を持ちます。素粒子は並列的と言えるのかもしれませんが、人間が考えるためには言葉を使わざるを得ないのであり、並列的な表現は持っていません。

そんなことを言い出すと、主観と客観の関係性もよくわからないものになってきます。人間は感覚器官を持っていて、その外は分からないのですが、意識は感覚器官に先行するのでしょうか。まあ仏教の十二支縁起ではそう考えるようで、また意識の前には無明があるようですけども。

ちなみに仏教ではこういった形而上的な問題には一切触れません。無記と言いますが、存在はあるのかないのか、世界はどのようにしてあるのか、といったことについて釈尊は一切語っていません。言語の能力を超えてるんですかね?語り得ぬことについては沈黙しなければならない的な?(そういえば仏教とヴィトゲンシュタインの比較研究は割ちょこちょこあります)それをあえて語ったのが龍樹で、空とか中道とかありますけども、とにかく言葉には気をつけないといけないみたいです。

主観と客観は対立するようなものに感じられるのですが、素粒子の波と粒のように人間が正しく言葉で表現できないだけで、本当は主観と客観は矛盾するものではないのかもしれません。

結局のところよくわからん

結局のところ、確実にこうだ、と主張できるものはないようです。これは相対主義というよりも関係主義と表現した方が適切なように思います。そして言葉の能力を完全に超えたものです。少なくとも絶対的なものがこの地上にあるのだとすれば、そもそも言葉なんてものは必要ないでしょう。

これはまるでアレですね、小学生が一度は悩む「この世界は僕の妄想なのでは!?」というやつです。あの時は「うわぁあああ」とか言いながらも次の日には友達と「デュエルしようぜ!!」とか言って楽しんでましたが、それぐらいがちょうどいいよね(*'ω'*)

考えるな、感じるんだ!