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一般人の個人ブログです

モノを持ち過ぎるのは良くないと悟った瞬間



久しぶりに高校の近くを通ったのですが、そこで急に思い出しました。私が無駄をできる限りなくそうと考えるようになったきっかけです。

高校のときの失敗(?)

高校のとき、自分でいうのも変ですが、私はクソ真面目で、教師から「これをしなさい」「これを持って来なさい」というような指示を受けたら、必ずそれをするようにしていました。するようにしていた、というよりも、それをしないという発想がなかったので、クラスに数人はいるヤンキーみたいな、やたらと教師に反抗する人が理解できなかったくらいです(真面目系クズの典型的な特徴ですよね、自我がない)。

そして、教師からは「置き勉するな、教科書・ノートは全部持って帰りなさい。そして授業に必要なものは全部持って来なさい」みたいなことを言われていました。なので、普段から鞄はパンパンだったのですが、授業の多い日は大変なことになっていました。ちなみに使っていた鞄は、プーマのエナメルバッグです。肩への負担がスゴイんですよね。

さて、あれは下校時だったはずです。学校から駅に向かって歩ているときに、車道から歩道に移ろうとしました。ときどき、車道と歩道の間に、草を生やして洒落た感じにしているところがありますよね。あれを跨ごうと思ったんです。そしたら、草が伸びててわからなかったんですけども、ロープが引いてあったんですね。等間隔で木の棒があって、そこの穴にロープを通してあったんです。そのロープに気付かずに、普通に歩く感覚で跨いだものだから、ロープに足が引っかかって、同時にクソ重いエナメルバッグが体より前にいったものだから、バランスが取れずに体が持っていかれたわけです。それで受け身を取れずに肘から落ちました。

落ち上がると肘から尋常ではない痛みを感じるわけです。しかも動かない。とっさに「折れたな」と思いました。家に帰ることなくそのまま病院に行って、親にも電話して来てもらいました。診察の結果は、案の定折れていて、しかも先生からは「綺麗に折ったね~(笑)」と褒められました。イイ感じに肘を打ち付けたようです。特に肘をいじったりすることもなく、そのままギプスを巻いて治療は終わりました。

翌日学校に行ったら、ギプスしてるものだから注目されるわけですけども、躓いて転んだら折れた、と言っても信じてもらえず、ケンカでもしてきたんじゃないかと疑われました。親にも疑われました。悲しかったです。それで本当に傷ついたのが、一週間後くらいなんですけども、ロープが撤去されていたことです。誰か見ていて哀れに思ったんでしょうね。

考えるようになった

その骨折があってから、自分で考えるようになりました。

先生は全部持ってこいというけども、本当に全部必要なのか?よくよく考えたら使っていないものもあるじゃないか。それじゃあ持ってくる必要ないよね。

ノートも一科目ずつ持っているけども、ノートの大部分はまだ書かれていないページだから、これってけっこう余分だよね。それだったらルーズリーフにして必要な枚数だけ持てばいいよね。

ルーズリーフをリングのファイルに入れて一元化したら、授業のない科目についても持っていくことになるから、クリアファイルで管理すればいいよね。

筆箱にバカみたいにペン入ってるけど、実際ほとんど使ってないよね。それに色々なペンを使ってノートしたら勉強してる気になるけど、ノート見直しているときに色分けってそれほど気にしてないよね。それじゃあ黒と赤でいいよね。ていうかペンほとんどないし、鞄のポケットに入れておけば筆箱いらないよね。

デジタルオーディオプレーヤーとかデジカメとか色々持ってるけども、これってケータイで何とかなるよね。ていうかお金もケータイでなんとかなるのでは?(当時はまだガラケーで、ケータイ一つで何もかもやってやろうと考える人はほとんどいなかったと思います)

こういうことを繰り返していくことで、(ちょっと規模が大きくなりますが)世の中で必要とされていると思われているものが実は必要でないこともある、ということが分かるようになりました。あと、上の例を見ると極端なものもありますが、一時期かなり極端にモノを減らしたこともあるんですけども、そのことで実は重要な役割を果たしたものがあるということも理解しました。モノがある状態とない状態の両方の極端を経験したことで、自分にとって居心地のいい中間を見つけられるようになったように思います。

ここ最近、このブログで人間関係のことについて書くことが多いですけども、IT技術が進歩して、関係性の効率化が行われるようになりましたが、それはどうかと思いますし、例えば世の中では一般的にLINEは必要なものと考えられていますけども、なくても困りはしません。

さいごに

骨折したことで、教師の言うことは本当に正しいのか、と疑うようになりました。

あと、関係ありませんがいい経験だったと今でも思っているんですけども、当時の私は地球温暖化の原因は人為的なもの(特にCO2)が原因だと信じていたのですが、実はそうではない可能性があるということを知りました(実際には何とも言えない微妙ところなのですが)。それで、一般的に信じられていることが、もしかすると間違っているのかもしれない、と疑うようになりました。

今思えば、これらの経験は大きかったように思います。こういう反発から自己形成は始まると思うんです。

ちなみに、今でも私はあまりモノを持っていないのですが、決してミニマリストではないです。これは前にも書いていますけども、無駄なモノを持たないのは当たり前のことだからです。問題は「無駄とは何か」であり、それは自分にしか分からないことです。自分がないと、モノの総量という客観的な数字を持ち出すことになるのだろうと想像しますが、それは大切なモノも排除してしまっているように思うんですよね。