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なぜミニマリストはミニマリストを自称するのか



なぜ「ミニマリスト」と言いたがるのか

私はミニマリストではありませんが、やっていることは、表面的にはミニマリストとそれほど変わらないであろうと思っています。ではなぜ私は自分のことをミニマリストと呼ばないのかというと、ミニマリストの考え方は極めて当然であるからです。

ミニマリストの定義はかなり曖昧なのですが、端的に言えば、無駄を省いて必要最小限のもので生活するという感じでしょう。無駄なものは持ちたくないと考えるのは当たり前のことではないでしょうか。無駄を省くのが面倒だからそのままにしているということもあるでしょうけども、その場合でも「無駄を省きたい」とは思っているわけです。こんなことは誰でも思っていることなんです。

そして当たり前のことについては名前を付ける必要がありません。他とは違う性質があるから、他と区別しないといけない理由があるから、名前を付けるのです。

一般的な人にとって無駄を省きたいことは当たり前のことなので、わざわざそれに名前を付ける必要がありません。しかしミニマリストにとってそれは「ミニマリスト」であり、区別をしています。つまりミニマリストにとって無駄を省くことは特殊であるということです。ではその特殊性とはなんでしょうか。

無駄とはなにか

そもそも無駄とはなんでしょうか。これは非常に簡単なことです。必要ではないものです。では必要とはなんでしょうか。これは人によって異なります。例えば、勉強したい人にとっては教科書のような勉強のための道具が必要であり、遊びたい人にとってはゲームやマンガのような娯楽が必要です。反対に、勉強したい人にとってはゲームやマンガのような娯楽は無駄なものであり、遊びたい人にとっては教科書は無駄です。

このように、必要は異なるもので、同時に必要を基準として無駄も人によって変わります。ここには価値判断が含まれます。そして、その前提には自分(自己)がなければなりません。

私が思うに、「私はミニマリストだ」と言わなければならない人は、自己が曖昧になっています。ミニマリストの多くは無駄を定義できていません。だからこそ、ミニマリストは過剰にモノを持たないのでしょう。ここで何が起きているかというと、自分という判断基準がないために、モノの総量という客観的に判断できる数字に頼っているわけです。だから、言ってしまえば、彼らは自分にとっての無駄なモノを捨てているのではなく、モノの量という客観的な数字を減らしているに過ぎません(また、この数字が少ないほど幸せであると信じている)。

そして、モノを捨てるという簡単さも重要です。たったそれだけのことで特殊性が得られるのです。それがアイデンティティとなります。なので「ミニマリスト」という言葉は、曖昧であった自己を明確にしてくれるアイデンティティそのものとして機能しています。これがミニマリストを名乗らなければならない理由です。

(自己、主観と客観についてはこの記事で、変な書き方ですが、書いています→現実と虚構についてテキトーに - nancolu

価値の逆転

ただそれだけの理由で、これほどまでにミニマリストは流行しなかったでしょう。他にも何からの原因があるはずです。私は、それは価値の逆転ではないかと思っています。

みんなが大好きな哲学者の1人としてニーチェが挙げられますが、彼のルサンチマンという発想に近いかもしれません。

ネットなどのメディアが発達したことで、豊かな人の生活を簡単に(イヤでも)見れるようになりました。豊かな人は持っています。しかしそれを見ているこちらは持っていない。ここに嫉妬が生まれます。

アイツらは色々なモノを持っていて楽しそうにしている。でもこっちには、ない。楽しんでいるアイツらは悪だ、そしてその対極にいる私は善である。

その「持たないことは善である」という考え方を後押ししたのは仏教でしょう。あらゆるモノを捨て去って出家する仏教徒、それは善いことです。モノを持たない自分と仏教徒のそれを結びつけると、自分は善い者になれます。現にミニマリストは仏教(特に禅)の文脈で語れることが多いです。Googleで「ミニマリスト 仏教」で検索したところ約125,000件もヒットしました。

また、似たものとして千利休が挙げられます。彼も無駄を省き、精神面の重要性を感じていました。しかし、ミニマリストが千利休の文脈で語られることはほとんどありません(検索したところ、約3600件でした。件数は常に変動しますが、仏教より少ないのは間違いないです)。なぜでしょうか。それは、千利休はハイカルチャーであるからです。持たざる者にハイカルチャーは合わないわけです。 (千利休とキリスト教の決定的な違い - nancolu

ミニマリストにおける格差

今、ミニマリストの間には格差が生じています。それは仏教的ミニマリストと千利休的ミニマリストです(「仏教的ミニマリスト」というのは、ミニマリストを自称する多くが仏教を持ち出す傾向がある、程度の意味です。仏教についてどうこう言いたいのではありません)。

仏教的ミニマリストは消費者としてのミニマリストです。千利休的ミニマリストは仏教的ミニマリストの上に立つ指導者的なミニマリストです(くどいですが、仏教を悪くいっているのではありません)。

出版もして人気ブロガーとなっているような、指導者としての千利休的ミニマリストを見てみると、その生活は非常に洗練されており、どことなく高貴です。田舎に移住し、古い家をリノベーションし、悠々と生活をする様。これは明らかに持てる側のミニマリストです。

自己の獲得、「負け組」からの脱却として、「ミニマリスト」という記号は有効に機能しました。しかしミニマリストというカテゴリの中で、新たな格差が生まれており、仏教的ミニマリストは千利休的ミニマリストに対して負け、さらにアイデンティティとしても機能しなくなっています。

仏教的ミニマリストはこう言います、「それでもミニマリストに…」。この「それでも」からは悲痛な叫び声が聞こえてきそうです。

さいごに

とまあ、ここまでテキトーに書いたのですが、ミニマリストという現象を考えてみると、現代人の精神性のようなものが見えてくるんじゃないかなぁと思っています。

あと、無駄を省いて必要なもので生活するというのは良いことだと思っています。私自身も、「無駄」の範囲が大きいこともあり、モノの数だけで言えばかなり少ないです。しかし、それをミニマリストと呼ぶことはしたくないですけども。