『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』を見た感想

『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』を見たので、その感想です。見た、といっても今回が初めてではなく何度も見ています。初めて見たのは私が小学生の時で、今までにもう10回以上は見ていると思いますが、何と言いますか、感想を書きたいので今更ですけども書こうと思います。

劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲

ミュウツーの逆襲は劇場版ポケットモンスターの第一弾です。公開は1998年、私は当時6歳ですね、可愛いな(笑)監督は湯山邦彦、脚本は首藤剛志。

ポケモンというと子供向けのイメージがありますが、本作は大人でも楽しめるようになっていて、テーマはなんと「自分とは何か」つまりアイデンティティです。首藤さんが脚本を提出したときは会議で「暗すぎる」という反対意見もあって大変だったみたいですけども、なんだかんだでその脚本が採用されたらしいです。しかし結果的にはその暗いところが評価されて大ヒットしました。

幻のポケモンとされるミュウのまつ毛から、その遺伝子を使って最強のポケモンであるミュウツーが人間によって作られます。ポケモンでもなく人間でもない。さらに人間に利用され、自分の存在意義について悩みます。私は誰だ。ここはどこだ。私は何のために生まれたのか。そしてミュウツーは自分を生み出した人間への逆襲を企てます。

誰が生めと頼んだ。誰が作ってくれと願った。私は私を生んだ全てを恨む。だからこれは攻撃でもなく宣戦布告でもなく私を生んだお前達への逆襲だ。

ミュウツーは強いポケモントレーナーを城に集め、そのトレーナーのポケモンを奪い、コピーを作成します。そして本物のポケモンとコピーのポケモンを戦わせました。強いものが勝ち、勝ったものにこそ意義があるとミュウツーは考えたわけです。さらにミュウツーの前にミュウが現れて…?(以下ネタバレがあります)

感想

初めて見たのは小学生の時ですが(劇場ではなくテレビで見ました)、そのときはまったく理解していませんでしたね(笑)今でもどうか分かんないですけども…。

本作は、私とは何かというアイデンティティがテーマになっているのですが、非常に難しい問題ですね。こんなのは誰であっても答えることはできないと思います。ただ考えることは重要なことだろうと個人的には思っていて、またそのことについてド直球に言葉にして苦悩しているミュウツーが大好きです。

そんなアイデンティティについて深く問いかけている部分が色々とあるんですが、特に大きなものとしては2つ挙げられるかなと思います。

まず1つ目は冒頭で描かれていますけども、ミュウツーの生い立ちです。ミュウの遺伝子から人間の都合だけで作られたわけですけども、ミュウツーはポケモンではあり得ないし人間でもあり得ない(人間の言葉は理解できるのですが)存在です。「私は誰だ?」というのは当然の疑問ですし、「何のために生まれたのだ?」というのもこれまた当然の疑問だと思います。

2つ目はサトシの石化です。この石化のあとにポケモンの涙があって、これが最大の見せ場と考える人は多いと思うんですが、涙はそれほど重要ではありません。問題はなぜサトシが石化したのかという点ですが、これはサトシが持っているポケモントレーナーとしてのアイデンティティの喪失を表現しています。ポケモントレーナーはポケモンを戦わせる人のことですが、なんとサトシはミュウとミュウツーの戦いを止めるという禁忌を犯してしまうわけです。結果的にポケモントレーナーとしてどうすることもできなくなってしまい、それが石化という形で表現されています。

この2つはとてつもないほどの問題で、根源的な問題といってもいいかもしれません。これを解決するにはどうすればいいのか、ということなんですが、論理的には解決できないと思います。だからこそ作中でも、1つ目に関してはミュウツーの「我々は生まれた。生きている。生き続ける。この世界のどこかで。」という謎の言葉とカスミの「さあ、いるんだからいるんでしょうね。」という当たり前の言葉で締めくくられ、2つ目に関してはポケモンの涙という不思議なパワーで解決しています。

結局のところ現実を受け入れることしかできないわけです。そしてこれは個人的に感じていることなのですが、どうすれば受け入れることができるのかというと、関係性を意識することだと思っています。サトシがアイデンティティの喪失から立ち直れたのはポケモンたちの涙があったからですし、ミュウツーが自己肯定することができたのもサトシの衝撃的な行動やポケモンの涙があったからです。

「私」を前提に考えを出発させると失敗してしまうようです。自己言及をしてしまうとダメになってしまうんです。だから「私」を出発点として世界を認識するのではなくて、関係性を前提としてそこに「私」を位置づけることが必要になると思います。

よく自分探しをして失敗する人や主体性のない人の話を聞きますが、これも「私」を出発点にしているのだろうと想像します。明確な自己を形成するためには、テーゼ⇒アンチテーゼ⇒ジンテーゼという流れを経験する必要があります。これは尾崎豊が分かりやすいと思いますが、学校というテーゼ(「私」ではないもの)があって、学校がムカつくから学校で問題を起こすというアンチテーゼがあるわけです。多分ですけども、既存の価値観に触れることができない人が増えているように思います。だからこそ反発(アンチテーゼ)ができずに、明確な自己(ジンテーゼ)に至ることができないのでしょう。最近の人は尾崎豊の話を聞いて「学校じゃなくて家でやれば何も言われないのに」と感じるそうですが、これはテーゼを得られていない証拠ではないでしょうか。

関係というのは存在を前提にするというのが一般的な考え方であろうと思います。しかし私は存在が関係を生むのではなく、関係が存在を生むと考えています。だから「私」について考えるならば、「私」以外の存在をまず認めることが必要です。「私」は完全に独立した存在なのではなく、あらゆる関係の総合であるため、他人を認めることができなければ「私」についても認めることはできないでしょう。

というのが私のアイデンティティに対する今のところの考えです。映画と全然関係ないですけどね(笑)しかしミュウツーの逆襲は考えるきっかけを与えてくれる非常に良い作品だと思います。ミュウツーみたいにド直球に問いを投げかけられるキャラはなかなかいませんし、アニメという特性が上手く使われていると思います。アニメだからこそ、いやポケモンだからこそできる作品だと思います。

小学生のときに初めて見て、アイデンティティとか難しいことは分かんなかったんですが「確かに自分てなんだろう?」という素朴な疑問を抱いたんですけども、なんだかんだで25歳になった今でも考えいるわけで、良い映画です、ものすごい影響を受けました(笑)

首藤剛志さん

首藤剛志さんはすごい人ですね。面白い方だと思います、言葉も分からないのに彼女のためにいきなりドイツにいったり、自分の書きたくないものは書かなかったり。その作品にも特徴が出ているように思います。

例えばポケモンであれば、ミュウツーは自己存在、ルギアは共生、エンテイは世界というように。どことなく、そういう「臭い」が感じられるように思います。(個人的には、関係性を認めることで「私」が成り立ち、関係性を前提とするからこそ異なる「私」たちが反発しながらも共生できるのであり、関係性そのものが世界であると思います)

まあ勝手に想像したところで仕方がないんですけど、しかし首藤さんから学ぶものは本当にたくさんあるなと感じています。くどいですがミュウツーの逆襲は今でも色々と考えさせられますからね。

正直なところ、個人ブログとはいえ、こんな記事書いていいのかなぁとはずっと思っていたんですが、でも、何だろう、大好きな作品なのでちょっと書いておきたかったんです、なんかすみません。