京都出身者が感じる京都のイヤなところ3選

私は京都生まれの京都育ちで、大学を卒業するまで京都を出たことがなかったくらいなのですが、あまり京都が好きではありません。その理由を3つ、簡単にまとめたいと思います。

交通の便が悪く、観光地に行きにくい

なんだかんだで22年間京都で生活をしていたのですが、その間に京都の代表的な観光地に行くことはほとんどありませんでした。確かに、東京の人は東京タワーには行かないというように、いつでも行ける感覚があるからこそ行かないという部分もあったようには感じますが、それ以上に交通の便が悪いことが最大の理由でした。

京都の代表的な観光地って、やっぱりお寺や神社だと思うんです。例えば金閣・銀閣、清水寺、貴船神社、稲荷大社、こういったところでしょうか。こういう観光地というのはたいてい京都の端っこにあります。端っこというのは、要は山です。この記事のアイキャッチ画像は清水寺にしましたが、よくみてください、山ですよね?

山ですから当然ながら電車を通すことはできません。そこで京都はバスとタクシーを発達させたわけですね。確かに便利になり、目的地まで行きやすくなりました(京都が奈良よりも人気があるのはバスとタクシーの影響が大きいです、それ以前は奈良の方が人気がありました)。

ただ、やっぱり山ですから道路は狭いし、車を止めるところもあまりありません。また京都は観光地として世界的に有名になってますから、山という狭いところに大量の人が集中します。

バスは満員で降りたいところでも降りられないし、タクシーで行っても車が多過ぎて目的地のすぐ近くで降りるのが困難なほどです。行くだけで一苦労です。

エセ京都が多い

京都というと、歴史や文化の街というイメージが強いと思います。しかし中身としては、歴史や伝統が全く関係ない「エセ京都」というのが意外と多くあります。

例えば、抹茶を突っ込んだだけで京都を演出するお店や、伝統的な技術がまったく使われていない着物が流通している、などなど。例を挙げれば本当にキリがないほどです。

こういうことを言うと「これは型破りなんですよ」とか言う人もいるのですが、型破りというのは型を収めた人間がやるからこそ型破りなのです。型破りの前提には必ず型があるのであり、完全に型を無視しているわけではありません。型をおさめていない「型破り」はただの我流であり、それは歴史も伝統も何もない薄っぺらいものでしかありません。

今の京都はこの我流によって成り立っています。どこが歴史と文化の街なのでしょうか。

もちろん、歴史や文化を本当に大切にしているお店はあります。あるのですが、そういうお店やサービスというのはたいてい理解されないものです。高度で難解な文化を見せつけられるよりも、「いかにも京都」みたいな雰囲気の方が受け入れられやすい傾向があります。結果的に本物よりも軽いエセを提供せざるを得ない現実があります。

最初、私は本物を理解しようとしない大衆に嫌悪感を抱いていたのですが、最近になって考え方が変わりました。大衆が抱く京都のイメージを作り出したのは、まぎれもなく京都自身です。京都は自滅しました。

田舎

京都は田舎です。精神的に田舎です。田舎出身者の中にも都会人というのはいるものですが、都会出身者の中にも田舎者というのはいます。精神的にというか、物理的にも京都は田舎だと思いますが、まあ都会の事情に暗い人が多い。

京都に安住し、京都を妄信しているように思えてなりません。一般的に言われるようなエグイ嫌味をぶちかますような京都人はごく少数であり、そういう人こそまさに都会人というべきでしょう。

しかしながら、大多数の京都人は嫌味を勉強しません。京都の嫌味はある種の芸であり、これを習得するには勉強する必要があります。にも関わらず、大衆を招くために作り上げたイメージによって自滅し大衆化した京都人は、品のない嫌味を身に付け、そしてそれを誇りにして他をけなします。これを田舎者と呼ばずに何と呼びましょう。

京都はいいところです

22年京都で生活をし、大学卒業は東京に行ったのですが、外に行くことで初めて京都の良さというのが分かったように思います。なんだかんだでまた京都に戻ってきてしまいました。東京に行く前の私は完全に田舎者でしたね。反省しています。

それにしても京都はいいところですよ。表面的にはエセがはびこっていますが、隠れたところには本物があります。

本物を守るために大衆化を図り、その結果として本物が淘汰されるというのは悲しいことですね。